ただ、この時代のローマ皇帝の在位記録などはかなりあやふやであり、この人物が本当に実在したのかどうかは明確とは言えない。彼(女)は最後は政敵に暗殺され、死体は川に投げ捨てられたという。
,h2>近代最初の性転換 近代になってから最初の性転換とされているのは、ドイツの風景画家・イラストレーター Lili Elbe(1886-1931)である。男性時代の名前は Einar Wegener といって、結婚して Gerda Wegener(1889-1940)という妻もいた。Gerdaも画家・イラストレーター・ファッションデザイナーであった。
彼女は手術を受ける前から Lili の名前で女装して友人たちの前に現れており、女装のまま Gerda の絵のモデルも務めていた。画家としての腕は Gerda の方が上であったようである。
1930年3月5日、Liliはオランダで男性性器を除去する手術を受け、次の手術で26歳の女性の卵巣の移植を受け、5月26日に3回目の手術を受けた。卵巣の移植を受けた時点で法的には女性として認められ、4月29日に女性のパスポートの支給を受けている。LiliとGerdaは愛し合っていたが、10月、国は二人に離婚命令を出す。二人はしぶしぶ従ったが、その後もよき友人であったという。
1931年9月12日、Liliは心臓発作のため死去。Liliは女性時代を十分に楽しむことはできなかった。死の直前にはベルリンで造膣手術を受けており、その手術の失敗が実際の死因ではないか、との説もある。
当時は膣のことを考えずに、最初にさっさと陰茎も陰嚢も切除していたようである。
手術では陰茎を短く切ってそのまま陰核としたという。この小さな人工陰核は性的に興奮すると勃起してしまったらしい。その後の彼女の消息については、よく分からない。
話題の主は Christine Jorgensen(1926-1989)である。性転換前の名前はGeorgeで、アメリカ軍の軍曹として朝鮮戦争にも参加した。除隊後1950年デンマークに行き、Christian Hamburger 博士の治療を受ける。4ヶ月のホルモン治療ののち、1952年暮れまでに男性性器の除去と外見的女性化の手術を受け女性に生まれ変わった。
彼女の手術をした医師は「手術をしていなければJorgensenは自殺していたであろう」と語っている。
彼女のことが報道されると、世界中の同じ悩みを抱えた男女が多数博士のもとを訪れ、特にこれから1955年頃まで一種の「性転換ブーム」が起きるのである。
ショーダンサーとして活動していたが1958〜1960頃に国内で手術を受け、女性になった。詳しい手術の内容などは不明。
この頃は国内でもかなり盛んに性転換手術が行われていたようである。ただし中にはかなり「品質の悪い」ものもあったという。
このブルーボーイ事件というのは、1964年に東京の青木正雄医師が3人の男性に性転換手術をおこなったものが「優生保護法違反」の名目で摘発された事件である。
この事件の詳細は、なだいなだの「くぁるてっと」に詳しい。この時期、警察は性転換して女性になった街娼の対策に手を焼いていた。彼女らはほぼ全て戸籍を変更していないため法的には男性である。そのため、売春防止法で取り締まることができなかったのである。そこで、優生保護法の「この法律で認めた以外に、性的に不能にする手術はおこなってはならない」という乱用防止規定を無理矢理、性転換手術に対して適用して「男性の街娼」そのものの発生を止めようとした。
この裁判の結果は1969年に出た。結果は、性転換手術自体は合法であるとしながらも、青木医師が患者の治療の記録をきちんと取っていなかった、つまり「闇の手術」的におこなっていたことを指摘して有罪とした。
この判決は、実は性転換手術をおこなうためのガイドラインを提示したのであるが、この事件は警察が意図した以上に医療機関を萎縮させてしまった。
その後30年近く、多くの医療機関が、青木医師が有罪になったということを重く受け止め、性転換手術に対して消極的な態度を取るようになってしまい、性転換を希望する人が国内で手術を受けられないという結果をもたらしたのである。30年後それを打ち破ったのは、埼玉医科大学の勇気ある決断であった。
高校中退後札幌でゲイボーイになり、「麻紀」の名前で活動。大阪のカルーセルにいた時に、日劇ミュージックホールに出演する話が来た。その時「麻紀」だけでは短かすぎるというので、店の名前を取って「カルーセル麻紀」の名前が生まれたというのは有名な話である。
国内では難しいということから、海外での手術の道を探り、1973年モロッコでGeorge Burou博士の手術を受けて、女性に生まれ変わった。その後タレントとしてテレビ等で活躍。彼女の美しいボディーラインがテレビで盛んに流れると、多くの悩める人々が性転換への意志を固めることになる。
Burouは、現在男性→女性の性転換手術の主流となっている、ペニス反転法の考案者である。ただし初期の頃は陰茎皮膚ではなく陰嚢を反転して膣にしていたようである。
これに対してRichardsは自分を女子選手として認めるよう裁判を起こした。判決(1977)は「Richardsは性転換から何年もたっており、男性であったことによる有利性はもはや存在しない」として、Richardsの主張を認めた。競技団体はしぶしぶ彼女のエントリーを認めたが、初戦でいきなり、クリス・エバート・ロイドにぶつけた。むろん結果はあえなく敗退。
しかしRichardsは後日エバートに再戦を申し込んだ。エバートは承知して、「超男性級のプレーヤーと元男性のプレーヤーとの試合」が再び見られることとなった。結果はむろん、やはりエバートの圧勝であった。
彼女が裁判で勝ったことにより、その後ほかの競技においても、多くの男性→女性の性転換をしたスポーツ選手が、女子選手として活動を続ける道が開かれた。
1977年にモロッコでジョルジュ・ブロー博士の手術を受けて女性になる。初期の頃は「瑠璃子」と名乗っているが後、「優」に改めている。テレビなどにもチョイ役で出演、劇団に在籍し、女優兼演出家として活動。そのかたわら、性別不適合に悩む人たちのための電話カウンセリングをする仕事に従事した。
そのことを思い出させてくれたのは、1981年に週刊文春が報道した「俊」という人である。1974年にスタンフォード大学で性転換手術を受け、同大が発行した性転換証明書をもとに帰国後改名しようとしたら、裁判所から「その前に性別を変更しなさい」と言われたという。1980年めでたく戸籍上も女性になった。
(もっとも1950〜1960年代の性転換の記録は半陰陽のケースと独立した性を持っていたケースの判別が難しい。実際に独立した性を持っていても半陰陽だったと主張したのではないかと思われるケースも多々あるようである)
この言葉は映画「ミスター・レディー・ミスター・マダム」に由来する。この番組で矢木沢まり、朝川ひかる、近藤トシ、浅野せいこ、などといったその後有名になる女装者・性転換者が紹介され、これを機会に、性転換や女装というものが、「日蔭の存在」から「普通の存在」へと大転換をすることになる。
「笑っていいとも」はその後も現在も続いている「ミスター・ビジュアル系」のような企画をおこなって、こういう傾向を後押ししている。この番組をもって、女装や性転換は「堂々とやっていいこと」とみんなが思うようになったのである。
1980年代は、1979年の女装クラブ「エリザベス」開館、1984年女装雑誌「クィーン」創刊、などの動きがあり、女装者や性転換者は「ゲイバー」に閉じこめられた存在ではなく、普通に一般に存在するものとなっていった。更には1990年代に入ると、パソコン通信のメディアを使った「EON」「SWAN」「FAIRY」といった女装ネットが活動し、女装者たちは多くの「正しい情報」を得られるようになる。
まさに時代は変わっていったのであった。
同大は男性→女性、女性→男性、という両方の患者を抱えていたが、ブルーボーイ事件が男性→女性であったことから、わざとそれを回避して、女性→男性の手術を先行させたものと思われる。
1999年には同大で、男性患者・女性患者ひとりずつが性転換手術を受けた。
そしてこれを機会に、岡山大学、関西医科大学など、多数の大学病院やいくつかの民間病院が去勢手術や性転換手術を行うようになり、「性の変更」というのは普通の治療になりつつある。ただ、国内ではどうしても手術をしてくれる病院が少なく、しかも実施頻度も低く、長期間(何年単位)の待ち時間になっているため、その後も性転換手術を受けたい人の多くは、タイやアメリカなどの国外に渡って受けている。
また外国での手術に不安を持つ人たちのために現地に同行して意志伝達や交渉、宿泊先の手配などをしてくれるコーディネイターが誕生しており、そういう所に頼って治療を受ける人も増えてきた。
・20歳以上であること。
・現に婚姻をしていないこと。
・現に子がいないこと。
・生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
・その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
しかしこの基準では子供のいる人は永久に性の変更が認められないことになるため、2008年一部条件の緩和が行われ「現に子がいないこと」が「現に未成年の子がいないこと」と改められた。そこで子供がいる人でもその子が全員成人したあとで、性別を変更することができる道が開けた。
ただ、このような子供条件はそもそも諸外国では見られない奇妙な制限であり、また性器の「近似する外観」という条件にしても、FTM(女性から男性への転換者)の場合は、ペニスの形成がひじょうに大変であり、そこまではしない人も多いことから、緩和すべきであるという意見も根強い。これは今後の課題である。