相撲の起源

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垂仁天皇7年(360年頃か)7月7日、「当麻邑に当麻蹶速(たぎまのくえはや)と いう者が天下に自分より強い者はいないだろう。もしいたら生死を問わず 力比べをしたい」と言っておりますと奏上する者がありました。

そこで天皇が群臣に他に力自慢の者はいないかと訊ねられたところ、出雲に 野見宿禰(のみのすくね)というものがおりますという答えがありました。
そこで早速両者が呼び出されて試合をすることになりました。これが一般に 「相撲」の起源とされています。

もっともこの時の決闘というのはデスマッチです。片方が死ぬまでやった訳 で、結果はご存じのように野見宿禰の勝ち。当麻蹶速はアバラ骨をボキボキ 折られて死亡しました。そして当麻蹶速の土地は召し上げられて野見宿禰に 与えられます。そして野見宿禰はそのまま天皇のもとにお仕えすることにな りました。

なお、当時は「日本を作った」権力者・日子坐(ひこいます)が絶対的権限を 持ち大和朝廷が福島県から瀬戸内海沿岸に至るまでの地域をその支配下に収 めることに成功した時期です。倭姫により伊勢神宮の祭祀も始まっています。

垂仁天皇の皇后は日子坐の孫娘(道主-みちのうし-の娘)の日葉酢(ひばす)姫 ですが、やがて皇后が亡くなります。この時、その直前に亡くなった天皇の 叔父の倭彦(大彦の子)の葬儀の時は近習を生きたまま墓に埋めるということ を行い、彼らが苦しんでいる声が何日も聞こえたということがあり、あれは もうやめようという話になります。そのとき野見宿禰が近習たちの代わりに 人形を焼き、それを埋めましょうという提案をしました。

この提案はひじょうにいいアイデアだということで採用になりこれをその後 「埴輪(はにわ)」と呼ぶようになりました。

この一連のエピソードというのは、その頃はまだ完全に大和朝廷の勢力下に あったわけではなく協力国的な地位にあったと思われる吉備・出雲文化圏が よりいっそう大和朝廷と緊密になっていく過程を象徴するエピソードなので しょう。埴輪の文化は中国大陸の文化を知っていた出雲の技術者(野見宿禰) が日本に教えたものと考えられます。崇神・垂仁朝の時期というのは大和朝 廷が単に一地方の政権ではなく日本全体を伺う大政権に変貌した時期なので 葬儀のあり方についても、中国の大王朝に倣おうとしたのではないかとも思 われます。

ですから実際にその直前に生埋め事件があったのかは若干疑問。中国でそう いう話があったという野見宿禰の説明が後に、実際に日本でもそういうこと が起きたという話にいつのまにか変わったのかも知れません。当時の天皇の 権力はかなり強力になってきつつあるといっても、これほどムチャが許され るほどの権力ではなかったようにも思われます。

なお、野見宿禰の子孫はこの埴輪を焼く作業に関わったため「土師(はじ)」 の姓を賜ります。土師氏も古代有力氏族のひとつです(今でも土師さんは たくさんいますが)。そして菅原道真らを輩出した学問の家・菅原家もこの 土師の一系統です。このため天神社に野見宿禰がいっしょにお祀りされてい る例も見かけます。


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