盤すごろくの歴史

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Royal Ur ■ウル王朝のゲーム(二十枡型)

盤双六型のゲームとして知られるもので最も古いものは古代イラクのウル王朝(BC2600頃)の遺跡から出土したゲームで、現在では Royal Game of Ur と呼ばれて商用ゲームセットが販売されているものです。このタイプのゲームはその後、イラクのみでなく、東はパキスタンから西はパレスチナ付近まで広い範囲で出土しています。詳しいことは例えば下記のページをご覧下さい。
http://web.ukonline.co.uk/james.masters/TraditionalGames/RoyalGameOfUr.htm

このゲームでは駒を白黒5個ずつ使います。サイコロは正四面体で1〜4が出ます。出たサイコロの数だけ自分の駒を進めてゴールにたどりつかせます。駒は初期状態では盤の外にあり、各々自分側のくぼみのところから、まず盤の広い方へ動かし、端に当たったら真ん中の道をたどって反対側に達し、そこから自分側の道に戻ります。つまり各々の手前の道は自分専用ですが、真ん中の道は両者で共有されています。(広い方の端からスタートして、向こう側まで行って、帰りは真ん中を通って帰ってきて12のマークの付いているマスでアガリという説もあります。)

サイコロの2が出たら自分の駒のどれかひとつを好きな花模様のマスまで一気に進めることができます。また普通に進行して花模様のマークの所で止まったら、もう一度サイコロを振ることができます。全ての駒を先にアガリまで持っていった方の勝ちです。

共通の道上で花模様の枡以外で、相手の駒がある所に自分の駒が止まったら相手の駒を外してスタートラインに戻すことができたという説もあります。ひょっとしたら後から↓のセネトの影響で加わったルールかも知れません。

なお、このウル型ゲーム盤はBC2000年頃までが限度で、それより後になると同じ20枡でも右のような形の盤が使用されています。


Egyptian Senet ■エジプトのセネト(三十枡型)

エジプトのセネト(senet)が盤双六の直接のルーツと考えられています。ツタンカーメン王(BC1350頃)の墓から出土したものが有名ですが、最古のものはBC2700年頃まで遡るとされています。ちょうどメソポタミアでウル式のレースゲームが遊ばれていた頃、エジプトではこのセネトが遊ばれていたものと思われます。セネトはヘレニズムの頃(BC300年頃)まで使用されていたようです。非常に息の長いゲームです。

セネトの各マスには本来絵が描かれていて「死者の書」の物語になっています。いわば冥界道中双六という趣きです。その詳しいマスの説明はこちらを参照

セネトは双方7個ずつ合計14個の駒を使用し、3枚の表裏のある棒を投げて0〜3の数字を出し(ゼロが出た場合は特例で4という説も)、その数の分だけ自分の駒のどれかを動かします。ただし自分の駒がいるマス目には進行できません。相手の駒がいるマス目に進行した場合はその相手の駒を取り上げて先頭に戻します。

26番目のマスは安全地帯で、ここは駒の同居が許されます。27番目のマス目に進行せざるを得なくなると15番のマス目に戻されます。28〜30のマス目からはジャストその数字が出るまでアガれません。

逆向きの遊び方もあります。この場合最初に出た投げ棒の目で表の出た数により |, ||, |||, ×の各目に乗り、その後1の目を目指して進んでいくというものです。この場合駒の数は双方10個ずつであったともいいます。


Egyptian Senet ■ギリシャの十二列盤

アレキサンダー大王の東征によりギリシャからメソポタミア・エジプトがひとつの文化圏になりヘレニズム文化が成立すると、このセネトがギリシャやローマに伝わり、ここでマス目が異なるゲーム盤が出現します。初めセネトの30マス盤を36に拡張したものが現れ、後にこの真ん中の列を外して24マスにしたものが現れました。これはいづれも12列の盤ということで、Duodecim Scriptorum (12列という意味) と呼ばれました。

Egyptian Senet この時期ゲームの駒の数が増える傾向があり、たくさん乗せられるように36マスの物が出現し、更にスピードアップのため、マスの数を減らして、その代わり1マスに多数乗せられる形式の盤が出たのではないかと言われています。

この時期の盤ゲームでは、最初から駒を盤上に並べるのではなく、最初は盤外に置いておき、ゲームの進行に従って盤上に投入していく方式が定着したようです。またセネトから最も変わった点は一つのマスに複数の駒を置けるようにして、自分の駒を何個も同じマスに入れておき、2個以上入っている場合はそこに相手の駒が来ることを禁止するルールが加わったことです。

そして、この頃から正六面体のサイコロが使用されるようになったようです。またゲームのスピートアップのため、この六面体サイコロを同時に3個振り、その値の分最大3個の駒を動かすことができるようになりました。ここでもう盤双六のルールがほとんど確立しています。ここまでの変化が完了したのがだいたい4〜5世紀の頃と思われます。


Egyptian Senet ■ヨーロッパは三角形に

その後ヨーロッパではこのマス目のデザインが変化していきます。中世に5角形の舟形のものが現れ、その先端はどんどん細くなっていき、やがて現代のバックギャモンのように完全に三角形になってしまいました。

ゲームの名前はバックギャモン(Back Gammon), トリックトラック(Trictrac), タブュラ(Tabula), プフ(Puff) タヴォレリアレ(Tavole Reale) などなど多くの名前で呼ばれておりルールも様々ですが、基本的な発想は同じです。

恐らくエジプトのセネトだって、時代時代で色々なルールで遊ばれたのでしょう。


■東方のナルド

一方、ギリシャの十二列盤は東方にも伝わりナルド(Nard)と呼ばれています。この名前はペルシャから北方はロシア、東はインドまで通じるようです。タクテ・ナルド、ナルドシール、ナル、ナルディ、などといった名前もあります。


■中国の双陸

中国ではこのゲームは双陸と呼ばれましたが、北方系と南方系で盤の形が違うようです。北方系ではマス目のところには花のマークが描かれており、中央には月のようなマーク(城という)があります。これに対して南方系は長方形のマス目を使用しています。

北方系 南方系

■日本の双六

日本における双六の記述は日本書紀の持統3年(689年)12月8日に「双六を禁止した」という記述があるのが初出と思われます。恐らくは6世紀後半か7世紀前半くらいに日本に渡来し、普及したものと思われます。

この手の禁止令というのは洋の東西を問わずよく出ていますが、概して禁令を出しても皇族・重臣たちが率先してやっていたりして効果はあまり上がっていないようです。

正倉院にも5個の双六盤が納められていますが、増川宏一氏によればその内の2つは本当に双六盤かどうか疑問があるとのことです。納められている双六盤のひとつは聖武天皇の御愛用品と伝えられています。この双六盤は中国の北方系の花模様の盤です。正倉院には南方系の長方形マスの盤も納められています。中国にあった両方の流儀がそのまま一緒に輸入されてきたのでしょう。

日本の双六盤は平安時代とそれ以後の中世で形式が変わってきています。平安時代には右上の絵のように床足または通常の机のような脚が付いた形だったのですが、中世には箱形のものが出てきています。例えば14世紀に描かれた長谷雄雙紙の双六盤は箱形になっています。

この箱形の双六盤には後に右図のような持ち手の穴が開けられるようになり、この穴の形にも流行があって、その形から逆に年代の推定もある程度効くようです。

双六は江戸時代の中期頃まで盛んに行われていたようですが、その後自然と衰退していき、その頃から変わって駒を1個しか使用しない、偶然の作用の比重の多い絵双六が多くなってきています。この交替の原因についてははっきりした理由は分からないようです。



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