タロットの歴史(5)日本のタロットの歴史
日本タロット始まり物語
目を転じて、国内でのカードの歴史ということで少し考えてみましょう。

まず、現在のタロットの流れですが、これに関しては、次の本を総合して読むと見えて来ます。

山田美登利さんは上記の本の中で、昭和25年に初めてタロットを手にしたと書いています。これは知人の恩師が戦前にトルコから持ち帰ったものだそうです。この山田美登利さんが昭和36年2月に発行した私家版のタロットが恐らく国内で最初に発行されたタロットでしょう。この写真は上記カラーブックス の木星王氏の本で見ることができます(49ページです)。

しかし、タロットが本格的に国内に出回り始めるのは昭和48年です。前年に種村季弘氏の「錬金術〜タロットと愚者の旅」(青土社)が出て、その読者の中からタロットに興味を持つ人が出て来ます。そしてこの48年に1JJが輸入されるとともに、オズワルト・ウィルトのタロットの海賊版だの、ウェイト版とマルセーユ版がごっちゃになったタロットだのが国内で発行されています。 そして翌年49年にはユリ・ゲラーの来日でオカルトブームに火が付き、色々な業者がタロットを輸入し、また色々な解説書が国内でも登場していますが、確かにこの時期は木星王氏も書いているように「混乱期」だったようです。

この頃タロットがブームになった原因について、木星王氏は「海王星が射手座に入ったためではないか」ということを「魔女のタロット」の解説書(魔女の家BOOKS)で述べています。海王星の射手座入宮は昭和45年の1月5日が最初で、5月3日にいったん蠍座に戻った後、11月6日に再入宮しています。占星術に興味のある方は、ぜひこの付近の動きというものを研究してみて下さい。なお、くしくも海王星が更に山羊座に抜けた1984年に私は初めてタロットを手にしました。木星王氏が「魔女の家」を設立したのも、確認できませんでしたが、この頃だったように思います。海王星は1998年に今度は水瓶座に入りました。もしかすると、これからまた、タロットにまた新しい歴史が刻まれるかも知れません。

なお、この1984年頃に時期について、木星王氏は「魔術師のタロット」の解説書(大陸書房 -_-;)で、1983年の冥王星の蠍座入宮の影響もあるのではないか と述べています。冥王星の方を見るとしたら冥王星は1995年に射手座に入っていますので、ここでもう既に何か転換が発生し始めているはずです。

タロット以前の歴史
さて、前節では、最近のタロットに直接つながる歴史を見てみましたが、それ以前のカードについて少し触れてみたいと思います。

現在につながる形で日本にタロットが入って来たのは前節も述べたように戦後ですが、実はそれ以前にも2回カードの渡来の時期がありました。

1つは明治時代のトランプの輸入です。この経緯については私も資料を持っていないので分かりません。この時なぜトランプだけが入って来てタロットが入 ってこなかったのかは不思議です。これはアメリカからの輸入でしょうか? このカードのことを「トランプ」という国は多分日本だけだと思うのですが、「トランプ」とは本来「切札」の意味で、アメリカでは「トランプ」のことは Playing Card といいます。それが何故「トランプ」と呼ばれるようになったのかは興味引かれるところです。

この「トランプ」というのを国語辞典でひくと「西洋かるた」などと書いてあるものがあります。この「かるた」はすっかり日本語になっていて「歌留多」などといううまい漢字までありますが、元々はcartaというポルトガル語であると考えられます。そして、この言葉とともにポルトガルの「かるた」が入って 来たのは戦国末期(16世紀末)の頃です。

この頃輸入された「かるた」及び、それを真似して国内で作られた「かるた」を「天正かるた」といいます。これは48枚のセットです。これが後に発展して18世紀初頭には75枚の「うんすんかるた」も出来ています。この「天正かるた」や「うんすんかるた」は現在も幾つかの美術館に保存されていますが、 その実物を見ると、ほとんどタロットという感じの絵柄です。

当時のヨーロッパではイタリア・フランスを中心にタロットは普及していた訳 ですが、船員たちが長い航海の間の手慰みに持ってきたものでしょうか。あるいは珍しい品として貿易相手の商人や大名たちの御機嫌を取る為に持ってきた ものでしょうか。

かるた以前の歴史
前節で天正年間に入って来たかるたについて述べたのですが、それが日本のかるたの最初である、と言うと疑問を呈される方があるかも知れません。

「百人一首は鎌倉時代からあったのではないか?」と。

確かに百人一首は藤原定家が鎌倉時代初期に選んだものです。ところが当時はかるたの形にして遊んでいた訳ではなく、書物として編集したものが流布され るとともに、色紙などに書いて愛でていただけであるとされます。百人一首をかるたとして遊ぶようになったのは、やはり江戸時代以降のようです。

(藤原定家は「新古今和歌集」の撰者の一人ですが、その撰の内容に不満があったため、別途「百人一首」を作ったのではないか、との俗説があります)

この百人一首かるた遊びの成立の背景には4つの文化が関わっていると思われ ます。それは、

(1)百人一首の和歌
(2)歌仙絵
(3)貝合わせ
(4)天正かるた
です。この4つのものを元に誰かが江戸時代の初期にこの遊びを作り出したものと思われます。

歌仙絵というのは、和歌と絵がセットになったもので、例えば「はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」といった歌の側に、小野小町の絵が描かれているといったものです。これも最初は独立に色紙に1首ずつ描かれていたようですが、これは後に絵巻物としても作られるようになり、鎌倉時代に作られた三十六歌仙の絵巻物「佐竹本三十六歌仙絵」 などといったものが大正年間まで伝わっていました。(非常に残念なことに大正8年に分割(;_;)されて掛軸にされて分散してしまいました)

百人一首かるたの読み札はまさにこの歌仙絵ですが、三十六歌仙のものはあっても、百人一首の歌仙絵は、残念ながら桃山時代以前のものは確認されていません。三十六歌仙があったのですから、百人一首があってもよかったようにも思うのですが。(もし見つかれば間違いなく国宝ですね)

それから「貝合わせ」は元々は他の「もの合わせ」と同様、貝の優劣を競うものだったようですが、鎌倉時代頃から、今のかるたのような遊び方が出てきています。

ここで「もの合わせ」というのは、花合わせ・根合わせ・薫きもの合わせ・絵 合わせなどといったものがあったようですが、平安時代の貴族の女性たちの遊びで、めいめいが花(当然、桜)だの、根(菖蒲の〜勝負に掛けた?)だの、お香だの、を持ち寄り、それに和歌を添えて優劣を競うという遊びです。数年前にはやったバーコード・バトルのようなものだと思って下さればよいでしょう。

堤中納言物語を読まれた方は、その中に「貝合わせ」というのが出てきたのを 覚えておられると思います。その物語の中では、可愛い女の子に貝合わせに勝たせようと、きれいな貝を調達してきますね。つまりこの当時は「貝合わせ」 はまだ優劣を競うものだったようですが、平安末期〜鎌倉初期の頃、貝を左右に分けて、片方(地貝)を並べてみんなで囲み、一人がもう片方(出し貝)を 1個ずつ取り出しては、みんなでそれと合う貝を探すという遊び方が出てきます。

この遊び方は、ピタリと一致する貝は1個しかないので成立した遊び方ですが そのままだとやはり紛らわしいこともあり、貝の内側に和歌だの絵だのを書いておいて、それで判別するようになっていきました。この貝の数は百人一首の 約倍の180が標準だったそうです。

この貝合わせでも、百人一首を搭載したものが作られる可能性があったとは思いますが、残念ながらこれもそのような記録・実物ともに残っていません。 (もし見つかればやはり国宝でしょう)

誰かが外国から来たかるたを見たとき、貝の代りに厚紙を使うことを考えたのかも知れません。実際貝合わせができるほど、つぶの揃った貝をたくさんそろえるのは非常に大変なのです。そして地貝相当の取り札と出し貝相当の読み札を区別しやすくするために、読み札を歌仙絵の形式にした可能性があります。 この辺りの結合の順序は色々と考えられますが、当時の資料らしき資料がないようですので、どうも事情は分かりません。

(なお、「貝合わせ」こそが実はタロットのルーツではないか?という説もあるようです。貝合わせのかるた式の遊び方が出てきたのが12世紀末ですから、それからユーラシア大陸をゆっくり渡って14世紀末にヨーロッパにたどりついたとしても、十分時間が合うことは合います。証拠を探すのは難しそうですけど)



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