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↑ 鵜の瀬


注連縄と水中洞穴入口 その右手。
子供が遊んでいる付近が
霊水を流し込む場所
その右手。
遠敷明神を祭る祠
 若狭姫神社は太陽に包まれている感じ、若狭彦神社は水の中にいる感じ、神宮寺は水の豊かな地、という感じだったが、鵜の瀬は水辺のリゾートだ。福岡県の筑紫耶馬渓の谷川や、青森県の奥薬研の谷川などを連想した。行った日はその時点ではまだ晴れていたので、夏の真っ最中ということで子供がたくさん水浴びをして遊んでいた。聖地だが、無邪気な子供たちの元気なエネルギーはここの神様にも心地よいものであろう。

 その付近は川の流れがそこだけ少し広くなっている。その広くなっている部分の向こう岸の左端をタクシーの運転手さんが指さし「あそこに小さな渦ができているでしょう。あそこから水が吸い込まれていくんですよ」という。しばらく眺めていると確かにその付近に渦が認められた。その渦の真上に大きな注連縄がある。そして運転手さんはその右手、川が広くなっている部分の右端を指さし「あの子供が遊んでいる付近。あそこからお水送りの時に霊水を流すんですよ」と説明してくれた。そしてその右手の方に祠がある。『陰陽師』で安倍晴明がお参りしていた祠だ。岡野玲子さんも、ここを見てあの絵を描いたのだろう。ここは本当に1300年前から変わらないのだろう。

岸のこちら、道路から鵜の瀬に降りていく道の左手にも新しい祠(右写真)があったのでお参りしていく。ここの神名名義の記録が無い。うーむ。この道の右手には「若狭一の宮降臨の地。霊域鵜の瀬。若狭彦神社・若狭姫神社・飛地境内」という標識が立っていた。

その後、右手の方にある資料館へ行った。ここに役行者の祠がある(写真取り忘れ)。これは元々神明神社にあったものだが、明治の廃仏毀釈の際に極楽寺に移され、後にこの資料館に移されたものだ。お水送りの様子を表した模型、写真、そしてビデオが放映中であった。見ていたが、マジで怖い感じのする行事だ。この行事は時の政権などから弾圧されても密かに行われたりして1250年続いてきたものだという。

資料館の更に右手(上流側)に白石神社があった。ここが遠敷明神のルーツということになるのだろう。半ば忘れられているようで、粗末な社殿に奉祭されていた。毎年3月2日にはこの一体でお祭りが行われエネルギーはチャージされているだろうが、普段はあまり人が来ないのだろうか。ここはもう少し何とかしたい感じだ。

しかし苔むした狛犬はかなり古い形式で、なかなか味があった。古き供に守られて、ここの神様はのんびり暮らしておられるのかも知れない。

以下資料編
■鵜の瀬の由緒を書いた小浜市の説明
 史蹟「鵜の瀬」由緒記
天平の昔、若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后天平勝宝四年(753)に二月堂を創建し修二会を始められ、その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに、若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付け、その水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜この淵へ根来八幡宮の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。
【小浜市】

■資料館内の良弁僧正に関する説明
奈良東大寺御開山良弁僧正はこの根来白石の百姓・原三郎兵衛の一男児で、大鷲がさらって奈良につれ行き大杉へ引っかけたのが育ち良弁僧正になったと根来の土地には伝えている。この来歴を尋ねると天平よりも昔し神願寺の開祖・和ノ赤麿公(和氏=鷲)が白石氏の長者・井太夫家の神童を奈良へ伴いゆき、その頃の名僧・義淵僧正(大杉)に預けおいたのが、のちに良弁僧正となられたとする説が正しいようである。その神願寺(今の若狭神宮寺)へ渡って来た印度僧・実忠和尚が根来白石出身の良弁僧正を頼って東大寺に行き二月堂を建てて、お水取り行事を始めたのであるが、今もなお根来には長者・井太夫の直系の原家やその一族が住みつき、良弁僧正幼時の守本尊・十一面観音を祀っていると言われる。


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