↑ 良弁僧正とお水送り
この鵜の瀬に来て得た最大の収穫は、お水送りがなぜこの地で行われている
のかが分かったことでした。それは鵜の瀬のページの資料編にも見るように
良弁(ろうべん)僧正がここの出身だったからなのでした。

奈良の東大寺の修二会で読み上げられる過去帳の筆頭は、「聖武天皇・皇太后・
光明皇后・行基菩薩・孝謙天皇・藤原不比等・橘諸兄・良弁僧正・実忠和尚・・・」
となっています。当時の政界の重鎮たちに混ざって、行基菩薩・良弁僧正・
実忠和尚の順で、東大寺創建に功のあった人たちの名前が出てきます。

行基菩薩はいわずとしれた、東大寺の大毘盧遮那仏(奈良の大仏)を作る
大事業の完成者です。既存のお寺の猛反発による悪質な工事妨害に頭を悩ま
せた聖武天皇が、民間で人気の高い行基菩薩に指揮を依頼したところ、さすが
に行基菩薩の邪魔をする訳にはいかず、大仏完成へと進むのです。

良弁僧正は東大寺の初代別当で、まだあの寺が東大寺という名前になる前の
金鐘山寺の時代に日本で初めて華厳経の講読を行った人です。お水取りの
練行衆の発表は毎年この良弁僧正の命日12月16日に行われることになって
います。そして実忠和尚がお水取り(修二会)を始めた人です。

「二月堂縁起」によれば実忠和尚(じっちゅうかしょう)は天平勝宝3年(751)10月
に笠置山の龍穴に参籠したとき、夢に兜卒天で観音さまが行をしているのを見て
感激、これを自分たちも見習って行をしようということにして始まったのが、
東大寺二月堂の修二会です。奈良の大仏が完成したのがこの天平勝宝4年の4月9日。
修二会もこの年の2月から始まったとされます。

岡野玲子さんは『陰陽師』の中で、大仏鋳造により水銀で汚染されてしまった
東大寺の土地を、水の豊かな鵜の瀬の時空をまるごと勧請することにより浄化
しようとしたのではないかと述べています。当時金は水銀との合金(アマルガム)
にして扱いやすくし、後で水銀を蒸発させて金を残す手法が取られていました。
もちろん水銀は人体には猛毒。故に浄化が必要だったのでしょう。

そしてその時時空を勧請する元として、良弁僧正の出身地であり、実忠和尚も
そこに一時身を寄せていた遠敷の中でも特に水の豊かな、鵜の瀬を使うことを
思いついたのでしょう。

良弁(ろうべん,689-773)は若狭神宮寺の資料によれば、秦氏の出で、秦常満と
いう長者の一子であり、神童の呼び声が高かったため神宮寺の開祖である和赤麿
が大和へ連れて行き、当時第一の名僧であった法相宗の義淵僧正(?-728)に預け
弟子にしてもらったものとされます。この秦氏は現在は原という苗字に変わって
おり、まだ根来で存続している古い家です。良弁はその後新羅僧の審祥から
華厳宗を学び、日本の華厳宗の第二祖となったものです。

実忠和尚(?-809)はインドの出身ですが、一説によれば来日後最初人を頼って、
一時期若狭神宮寺に身を寄せていたといい、その後その地出身の良弁を頼って
奈良に出たとします。笠置寺の方の資料では天平13年(741)に一度参籠を行い、
天平勝宝4年に観音の行の夢を見たとするのですが、別の説では実忠和尚は
インドにいる頃にこの夢を見て、生きた十一面観音を求めあちこちを巡り歩き、
やがて日本に来たとします。

「二月堂縁起」でもこの生きた十一面観音を尋ね歩いたことは書かれており、
それによれば和尚は摂津国の難波津で、補陀洛山に向かって香花を流して祈願
したところ、百日目に十一面観音が渡来したので、これを東大寺上院(二月堂の
正式名称)に勧請したとします。実忠和尚は大同4年の修二会の最中2月5日に
亡くなったため、現在でも東大寺修二会で3月5日は実忠忌の行事が行われます。

この実忠和尚が実際に若狭神宮寺に一時期おられたのなら(人を頼ってというの
はやはり渡来氏で幅広い人脈を持つ秦氏の関係か?)まさにそのイメージが強く
あったでしょうし、もしそうでなくても師匠である良弁僧正から鵜の瀬の話は
何度も聞いており、或いは彼を伴って里帰りしたようなこともあったのかも
知れません。

しかもこの鵜の瀬は東大寺とは同じ子午線上にあり(東大寺135度50分,鵜の瀬
135度48分)、勧請しやすい空間配置になっていたのです。


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