修験道

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山岳の実践宗教

修験道(しゅげんどう)は山岳における修行の中に存在します。この道に励む者たちは修験者(しゅげんじゃ)と呼ばれ、山に寝起きすることから山伏(やまぶし)とも呼ばれました。

修験者の代表的な修行は山駆けです。険しい山の中の道を歩いて歩いて歩き通しました。修行者たちは最初に行くかどうか尋ねられ、自信のない者は遠慮なく辞退しました。そして一旦歩き始めたら、途中で脱落することはそのまま死を意味しました。そして、そういう命懸けの修行で初めて、研ぎ澄まされた強い精神が得られるのです。

密教の管轄

この修験道は日本では平安時代以降、密教の寺院に管理されることになりました。真言宗に管理されたものを当山派と称し、その中心は醍醐寺。その修行の場所は吉野(大峯)です。また天台宗に管理されたものを本山派と称し、その中心は聖護院。その修行の場所は熊野です。

実際には修験道の道場となる霊山は全国にあり、有名な所では、出羽三山、栃木県の日光、北陸の立山・白山、富士山、山陰の伯耆大山、四国の石鎚山、九州の英彦山、などがあります。

日本の精神思想のバックボーン

修験道は様々な宗教・思想と関わり、互いに影響を与えてきました。山林での修行は神道と影響しあったもの、呪術は密教と影響しあったもの、神仙術は道教から影響されたもの。山村に住む人たちと芸能や信仰で影響を与え合い、山間で鉱山を掘る人たちと技術交流をしました。そういう訳で、修験道は日本の精神思想のバックボーンであるともいえます。

神楽や田楽といった芸能は山伏の祭礼の踊りを村人が真似たことから発達したものと言われます。山伏たちは山間のお花畑で摘んだ花を町のお寺に届け、仏様を飾りました。ここから池坊などの華道が発生しています。ソバは元々山伏たちが修行中の食糧としていたものを、やはり村人たちがまねて食べ始めたものです。山伏たちはまた村人たちの求めに応じて、病気の人に薬草や化学物質(水銀等)などを調合した薬を処方したり、祈祷の護摩を焚いたりして治療に当たったりもしています。しかしこういった山伏たちが交流した山村の人々の中には、古代の山の民の秘儀を密かに伝える人たちもいて、そういうところから修験道に流れ込んだ秘法もあるものと思われます。

柴灯護摩(さいとうごま)

山伏の祈祷というと多くの人が思い浮かべるのが柴灯護摩です。屋内でやることもありますが、一般には屋外で丸太を井桁に組んで火を燃やして、祈祷を行います。密教ですと地水火風空の五大思想が出てくるところですが、さすがに修験道は違っていてなんと中国の五行思想、木火土金水で支えられています。すなわち、木を金(斧)で切って、土の上に積み上げ、火をつけて燃やし、最後に水をかけて消すのです。

一般にこの柴灯護摩に先だって山伏問答が行われ、最後には火渡りの行(まだ消えていない護摩の火の上を歩く)が行われます。

九字(くじ)

九字は元々道教からきたもので、陰陽道・密教・日蓮宗などでも使用されます。いろいろなやり方がありますが、基本は「臨兵闘者皆陣列在前」(あるいは「臨兵闘者皆陣列前行」)の呪文に合わせて、印を結ぶか手刀で左にあげる九字の図形を空中に描きます。基本的には破邪の修法です。印を結ぶ方法では、各印が表す諸仏の力を借りて神聖な波動を発生させ、邪悪な存在がそこに居れないようにします。手刀で九字図形を描く方法では、まさにその手刀によって邪を粉砕し、退けます。

なお、九字の呪文の意味は「臨める兵、闘う者、皆陣を張り列を作って前に在り」あるいは「前を行く」ということで、聖なる仏たちの軍団が来ているから諦めて退くように悪鬼に対して勧告していることになります。


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