※「セキュリティ保護のため...」というメッセージが出る方・日本語が入力できない方へ
↑ 筋肉疲労の理由
下記はfforte/mes3に書き込んだ記事である。


名田庄に行くと決めた時、最初私は7月14日の昼頃に能登半島を出てその日は小浜市
に泊まり、翌朝以前KATSUさんが紹介してくださった朝7:00の小浜発のバスで村営バス
に乗り継ぎ、8:00に納田終に到着するというコースで行こうと思っていました。

ところがここで「いっそのこと14日に名田庄に泊まったら」とマイハニーからご提案。
なるほど、それはうまい手です。そこでさっそく、暦会館の隣りにある流星館という
村営ホテルに予約の電話を入れます。ところが!!14日の夜はもう予約が満杯という
ことでした。

まさか、こんなところで「予約がいっぱい」などという話が出るとは思いもよらな
かったので、他に泊まれそうなところはと探して、結局名田庄村の中心部近くにあり
ます、三重の南川荘というところを押さえました。

JRナビの検索結果では能都町を12時頃に出ると小浜に18時前に着き、すると
小浜を19時のバスになって、三重は19時半くらいかなと思ったので予約の時に
そう伝えますと、向こうは何だか嫌そうな声。『そうか、田舎は時間が早いんだ』
と気付きます。

都会ではお店が20〜21時に閉まり、22時でもまだ宵の口の感覚ですが、田舎では
17時でもう一日の活動はほとんど終わり、18時にもなれば開いている店はなくなり
人通りも途絶えるのが普通ですね。そこで私は一便早い便に切り替えることにし、
能都町を10時に出て、小浜に17時半に入るコースに変更することにしました。
2時間早く出て30分しか早く着かないのは不効率ですが連絡が悪いとこうなります。
それだと小浜を18時のバスに乗れるので18時半頃三重に着くはずです。

この時、どこのバス停で降りればいいかを確認していなかったのが第二の躓き
のはじまりでした。

この時点での私の大雑把な計画は

 14日に名田庄に入る。
 14日の午前中に納田終に行って土御門遺跡と暦会館を見る
 14日の午後から敦賀・京都経由で福岡に戻る

というものでした。時間があったら京都の晴明神社にも寄ろうと考えていました。


さて、13日の日、子供連れで小松空港に降り立ちますと、例によって「疲れたから 少し休む」との、お達し。遅れた場合の乗り継ぎの時刻をうかつにも確認していな かったのですが、持っていったパソコンには「JRナビ」ではなくて「乗換案内」 の少し古いデータのものしか入っていませんでした。 実はうちのマシンには一台ごとにプレインストールされているソフトがバラバラで この手のソフトでも、JRナビの入っているものと、乗換案内の入っているものと 駅スパートの入っているものとがあります。とにかく最新のデータが確認できない ので、空港内の書店に行って、時刻表を買ってきました。 そこで第一の躓きが明らかになります。「のと鉄道の輪島−穴水間が廃止されてる!!」 確かにそんなニュースは聞いた記憶がありました。しかし、そんな情報は私が7日の 日に見たJRナビには入ってませんでした。「あれ?データが古かったかな」 要するにいろんな類似ソフトがあって、全部は最新版にバージョンアップしていられ ないのでいちばん使いやすいJRナビだけを最新データにしていたつもりが、最新 ではなかったようです。結局私が見ていた、能都町−小浜間の乗り継ぎ情報は全然 信用ならないものであったことが分かりました。 そこで能都町に向かう汽車の中で、慌てて再度小浜への乗り継ぎを確認しますと 連絡が良くなっていて、11時に能都町を出れば、16時半に小浜に着くという大幅に スピードアップした行程が成立していました。当然これで行くことにします。 小浜からのバスは17時半ですから、小浜で1時間の余裕。実はこれで助かりました。 この時間の間に念のため着替えの予備を購入。これで助かることになります。 14日の日はその予定通りに16時半に到着。17時半のバスに乗りますのでということ で宿泊先に連絡の電話を入れます。この時、どこのバス停で降りれば調べておくの を忘れていたことを思い出し、それを宿の人に尋ねました。これが第三の躓き。 きっとみんなバスなんて乗ってないんです。だから廃止されるんですよ。 「名田庄で降りてください」「あ、名田庄というバス停があるんですね。ありが とうございます」 名田庄村に名田庄というバス停があるのは変な感じもしますが、町の中心部付近 なので、そういう名前が観光客向けに付くケースはあります。いっそのこと、 ここでバス停なんて尋ねていなければ、良かったのですが.....
バスは学生さんが大量に乗っていて、私はギリギリで席を確保しました。20kgの 荷物を持ったまま山道を走るバスに立っているのはしんどいところだったので 助かりました。 バスは順調に谷間をくぐりぬけていきます。ずっと右手に川が流れています。 これがその晩電子地図で確認してみると「南川」で、名田庄村というのは この川沿いに発達した村のようです。 さてバスが秋和というバス停にさしかかった時、横に「南川荘」という名前の ドライブインのようなものが見えました。もしかしてあれ?と思ったのですが、 バス停の名前が違うので、同名の別の物かも知れないと思い「名田庄」という 名前のバス停が来るのを待っていました。 ところが。 結局そんな名前のバス停など現れることなく、バスは終点の井上(いがみ)に 着いてしまいました(^^;; やはり、あそこだったんだ(^^;; ということで、その帰りのバスに乗って秋和まで戻り、宿屋に入ったのは 18時半頃でした。この宿屋もひとがいっぱいで、ほとんどの部屋が埋まって いたようでした。どうして、こんなに人が多いんでしょうね(^^;; みんな、 こんな山の中に、なんの用事があるんでしょう(^^;;; さて、翌朝(15日・日曜日)、小浜を7:00のバスが秋和バス停を7:27に通ります。 そこで、それに乗って納田終に行くことにして、宿屋を出てバスに乗り、 JRバスの終点・井上に着いたのが7:38。 昨日誤って井上に来てしまった時は、乗り継ぎの村営バスがもう来ていた のに今日はその姿が見えません。 『今から来るのかな。とにかく時刻表を確認しよう』 と思ってバス停の待合室に入って時刻表を眺めて絶句。 このバスに本来なら乗り継げるはずの7:46発の棚橋行き村営バスは日祝運休 だったのです。 そして、日曜日も動いているいちばん早い便はなんと14:36。約7時間の 待ち合わせ....... この村にはタクシーもありませんので(^^; これは歩くしかない、という ことになりました。 これが筋肉疲労の原因というわけです。 念のためその場でノートパソコンを取り出し電子地図で確認しますと、 井上から納田終までは直線で5kmありましたので、道のりで6〜7kmと推定 しました。(福岡に戻ってからMapFanで確認したら6.1kmでした。持参した マシンにはMapFanではなく、ずっと使いづらいゼンリンの電子地図が 入っていました) 帰りも時刻が合わないので往復歩きになります。これで昨日の夕方小浜で 念のために買っていた予備の着替えが役に立つことになりました(^^;;;
ということで来年の3月に井上行きのバスが廃止されてしまいますと、納田終へ の交通はたいへん不便になってしまうことが予想されます。今の内にぜひ一度 納田終を訪れてみましょう!! ☆土御門家について  平安中期陰陽道の祖である賀茂忠行の子の賀茂保憲(917-977)は陰陽道の内、  暦道を実子の賀茂光栄(939-1015)に伝え、天文道を弟弟子の安倍晴明(921-1005)  に伝えました。これによりこのふたつの家が陰陽道宗家となりました。    賀茂忠行は京都賀茂神社や奈良県の葛城賀茂神社などに関わる賀茂一族の出身。  一方の安倍晴明は孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこのみこと)を祖とし、聖徳  太子との交友も深かった安倍倉橋麻呂は大化改新政権の左大臣を務め、竹取物語  にも登場する安倍御主人(みうし)は右大臣として文武天皇に仕えています。  安倍晴明の子孫は安倍有世の代の1384年から、屋敷の前の通りの名前を取って  「土御門」家を称しました。    そして1565年に賀茂家の当主・賀茂在富が跡継のないまま急死すると、山科  (藤原)言継の勧告により、安倍家の次男の安倍有高が賀茂在高と名乗って、  賀茂在富の死後養子ということになり、賀茂家を相続。ところが有高の兄で  安倍家を継いだ有脩に子供ができなかったため、有高の子の賀茂久脩は更に  安倍有脩の養子になって、結局、安倍・賀茂両家を相続。これによって以降  安倍家(土御門家)は陰陽道のふたつの系統を一手に掌握することになりました。  そして、江戸時代の安倍泰福(1655-1717)は神道の造詣が深く、土御門神道を  設立しています。この人は政治的な才能も高く、幸徳井家から陰陽道の主導権  を奪い返すことに成功。1683年に諸国陰陽道支配の綸旨を霊元天皇から得て、  これにより土御門家が全国の陰陽師・萬歳師に免状を与える立場に立ちました。    明治になると神道は国家神道の管理に統合されてしまい、白川神道や山王一実  神道なども廃絶の憂き目にあっていますが、土御門神道も例外ではありません  でした。加えて、暦の編纂は東京大学に移管され、土御門家の出る幕はなくな  ってしまいます。    かくして千年の伝統を保った土御門家も消えてしまうわけですが、戦後になる  と、土御門家の最後の当主である安倍範忠ゆかりの藤田乾堂氏により、天社  土御門神道本庁が復興され、現在に至っています。   ☆名田庄と土御門家    この名田庄を通っている小浜−京都間の国道162号線はいわゆる「鯖街道」の  ひとつです。日本海の漁場で獲れた魚を京都の市場に運ぶためのルートの一つ  であって、早くから交通が発達していました。    古くは安倍家の祖先の大彦命が崇神天皇より北陸の平定を指令され(四道将軍)  た時も、ここを拠点のひとつに置いたと言われています。    名田庄に安倍家が関わった最初の記録は1317年、花園天皇(*1)が安倍有弘に  泰山府君祭の知行として与えたのが最初で、有弘は正中の変(1325)を機にして  京都を離れ、その子長親とともに上庄(*2)を訪れました。    この時、有弘・長親は京都の賀茂神社と貴船神社をこの地に勧請。あわせて  善積川上(よしづみかわかみ)の神と祖霊十二を祭って安倍氏の氏神とし、上庄  に上宮・下宮を設立しました。このうち上宮(棚橋)は明治時代の一村一社制の  導入により下宮に統合されてしまい、現在白矢地区の加茂神社となっています。    その後、歴代の安倍家の当主がこの土地に関わって来ていますが、安倍有宣  (1433-1514)は応仁の乱の戦禍を避けて、この地に本格的に移住。以後安倍有春  (1501-1569)、安倍有脩(1527-1577)、安倍久脩(1562-1625,1558生説有)がこの  地に主に住んだとのことです。    (*1)暦会館で頂いたパンフレットには「花山天皇」と書かれていましたが、時代    が違いますね(^^;花山天皇は安倍晴明の時代の人でありまして、花園天皇の    誤りです。    (*2)名田庄村の東側の田村・三重・知見を下庄といい、西側の下村・中村・坂本・    上村を上庄といいます。今で言うと多分、長いトンネルのある小倉か名田庄    中学のある付近が境目ではないかと思います。  【安倍家・略系図】  晴明―吉平―時親―有行―泰長―泰親―藤茂―泰忠―藤盛―有弘―長親―泰世     ―泰吉―有世―有盛―有季―有宣―有春+―有脩                     +―有高(在高)―久脩―泰重―泰廣―泰福     ―泰邦―泰榮―晴親―晴雄―晴綱―晴榮―晴行―晴善―煕光―範忠     実際のつながりは実子ではなく養子のパターンも多いようです。どこかで   血縁はつながっているのだとは思いますが。分かっている範囲では晴榮は   晴雄の娘婿ですし、範忠は煕光の実弟です。もう少し詳しい資料が暦会館   にも売っていましたが、予算の関係で購入は断念しました。  (藤茂・藤盛の「藤」は本当はそのつくりの部分のみ。音が同じで実際代用   される例もあるようので、上記では代用した。この文字はunicodeにも見ない。   文字鏡のURLは http://www.mojikyo.gr.jp/gif/073/073546.gif   しかし泰の字になっている文書もあるもよう。手書き文字では確かに判別し   づらいかも)   藤田乾堂氏と範忠の関係については聞きそびれました。いろいろゆかりが   あったようなのですが。どなたか行かれて、もし(角の立たないように)   聞く機会がありましたら、教えて下さい。 ■バスの都合が合わずに歩く場合  井上バス停から暦会館までは6.1kmあります。道はいいですし、ほとんど平地  で坂もありませんので(実は緩い上りなのですが、行くときは分かりません)  充分歩くことは可能です。  私は日曜日に行ってしまったため、往復歩くハメになりました。  パソコンや着替え・その他で約20kgの荷物を持っての行程でしたが、行きは  1時間50分(うち土御門遺跡で40分使用)、帰りは1時間15分かかっています。  もちろん汗びっしょりになりました。それから途中トイレはありません。  (井上バス停付近にもありません。小浜駅構内にはあります)  特に女性の方は暦会館では確実に行っておかれたほうが良いでしょう。

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