※「セキュリティ保護のため...」というメッセージが出る方・日本語が入力できない方へ
土御門遺跡(2)
■6つの辻
土御門遺跡にはいくつも案内板が立っているが、その中に左のようなものがあった。その中で目に付いたのが左図で分かりやすいように赤い字で表示した6つの辻である。日の辻・月の辻、火の辻、土の辻、金の辻、水の辻。
これが加茂神社の所から入る道に沿って日月が並んでおり、土御門殿の所から入る道に沿って火土金水が並んでいるのが分かる。しかし、それぞれひとつ足りない感じだ。日月なら星が欲しいし、火土金水なら木が欲しい。月の辻から先に進んだところに左図では読みにくいが「星のオブジェ」と書かれているものがある。あるいはこれが星なのだろうか。
火土金水はきれいに五行の相生順に並んでいる。つまり火生土、土生金、金生水だが、これの前または後に木が欲しい。つまり水生木または木生火。普通は木火土金水と並べるので、あるいはこれより前のどこかに木の辻があるのかも知れない。
以下資料編
■加茂神社の説明
別称 山坡前(やはまえ)加茂神社
ご祭神 加茂別雷神 合祀 善積川上大神(土御門家12祖神御霊)
天社宮泰山府君大神(中国泰山の神。陰陽道の主神で寿命を司る)
貴船闇おかみ神 (谷の竜神として雨を司る神)
境内社 愛宕社(火産霊神) 荒神社(奥津日子神・奥津比売神) 稲荷社(豊受大神)
広峰天王社(牛頭天王、摂社・吉備真備公)
秋葉社 (秋葉大明神・迦具土神)伊勢大廟遙拝所
養老2年(718)名田庄荘園の守護として、朝廷・貴族の間で信仰の厚かった京の加茂社の神を名田庄総庄の田村に御勧請し小祠を造り「矢波前加茂大明神」として奉祀したと考えられる。その後南北朝時代の北朝貞和2年(1346)安倍長親・泰世・有世たちにより、この白矢に御分霊を奉祀し貞和5年(1349)12月2日正遷宮が行われた。善積川上神社は元、棚橋地区に祀られ「上の宮」「御霊さん」と村人から崇拝され、上の宮・下の宮(加茂社)の二社が氏神・鎮守として祀られていた。しかし、明治41年(1908)政府の方針により他の社と共に加茂社に合祀された。
春秋の祭・芝走り・大膳大食の儀式など陰陽道の特異な行事が今も伝承されている。
晴明の父益材は朝廷の食膳調達を司る宮内省大膳職の長官(大膳大夫)でもあり、陰陽五行説に基ずく「食経」に従い調理に当たっており、この辺りからの関連も考えられる。
【土御門史蹟保存会】
■天社宮・泰山府君社跡
日本一社(室町時代〜明治41年まで奉祀)
中国・泰山の守護神「泰山府君尊神」を祀った社跡。歴代中国の皇帝がこの神を信仰した。遣唐留学生として唐に学んだ安倍仲麿が、吉備真備に託して安倍家の守り神として日本に伝えたもの。
奈良朝・平安朝頃から、朝廷や上流貴族たちの信仰が厚く、一般庶民の信仰は許されなかった。宮中と安倍家だけに祀られていたが、正中の変・応仁の乱により京の都は兵火に見舞われ、公家たちはそれぞれ難を逃れ、安倍家も勅許の御倫旨を得て、すでに安倍家の庄園であったこの地に居城を構え泰山府君を奉祀し、伊勢神宮の諸祭儀・朝廷と国家の安穏・五穀豊穣を祈願した。
後に一般にもこの神の信仰が許され、長寿の神として崇められた。「源平盛衰記」に桜町中納言が泰山府君に桜の花の延命を祈願した話もあり金剛流の能「泰山府君」でも伝承されている。
「博物誌」に「泰山の神は人の生命の長短を知る」と記されており、歴代天皇や将軍が新しく即位や、宣下に必ず「泰山府君祭」(天冑地府祭)を行った。また泰山府君は閻魔大王の化身とも、脇侍ともされている。今は、加茂神社と土御門殿に祀られている。
また加茂神社の鳥居前には閻魔大王など十王を祀った十王堂(地王堂・地蔵堂)もある。
千早振る 現人神のかみたれば 花の齢は のびにけるかな(源平盛衰記)
■土御門家居城跡
安倍(土御門)家がこの名田庄と関わりを持ち始めるのは、土御門文書によると正和6年(1317)12月13日に花園天皇より「泰山府君祭料地」として安倍有弘に御倫旨を賜った事により始まる。慶長年間までこの地に在居する。
【土御門史蹟保存会】
■葛の葉稲荷神社
ご祭神 葛の葉姫大明神
葛の葉姫大明神とは、安倍晴明公の母君とされ、和泉の国信田の森にご本宮は鎮座されている。この白矢の土御門館跡に祀られているのは、土御門家が在住されていた頃ここに祀られていた社で、京都へ移住のとき、京都唐橋の新邸内に社を建立し奉祀されていたもの。
その後、都が東京へ遷都された明治の始め、土御門家も東京へ移住することとなり、京都の邸内から東京青山の新邸内に移されていた。
やがて、太平洋戦争で東京大空襲にあい、ご本殿は焼失したが、この御霊を再びこの地にお祀りするようになった。不思議なことに此のあたりに昔、白狐が住んでいたという言い伝えがある。
「恋しくば たずるきてみよ 泉なる
信田の森の うらみ葛の葉」
この歌に知られるように、信田の森の葛の葉物語は、人と狐の細やかな愛の物語としていつまでも語りつがれている。昔々、村上天皇の頃(955年頃)のお話です。
【土御門史蹟保存会】
■十王堂
(室町時代・土御門家在住頃よりと推察される)
閻魔大王と冥府十王。並び、倶生神・闇黒童子などを祀る。(各神像の制作年代は不詳)
閻魔大王は、仏教の天部の神であり、サンスクリット語で「ヤーマ」といい、古代インドの神話に出てくる神。同じ神話の妹神「ヤミー」とは双子ともいう。古代中国の道教思想の影響を受け、十王信仰の中心となり、死後の世界の審判官と言われるようになった。
死の世界には、泰広王をはじめ十人の王がいて、死後七日ごとにそれぞれの王の前で裁判を受けるという。閻魔大王は五番目の王で、五・七日(三十五日忌)の審判官となって地獄極楽の決着を判定されるという。普通は脇侍として泰山府君(太山府君)を安置してあることが多い。
また七日、七日目ごとの逮夜(厄)法要に、お布施をして祈ることから「地獄の沙汰も金次第」と言われるようになったともいう。閻魔大王には、地蔵菩薩の化身だとして平安時代の始め頃から貴族の間で地蔵信仰が盛んになり、次第に農民の間にも普及し「十王堂」がたてられるようになった。
土御門家の陰陽道信仰の中でも、安倍晴明公と泰山府君・不動明王・えんま大王との関係は特に重要な位置を占めており、この地を陰陽道の本拠地とした宗家土御門家としては、加茂社の守護としてまた南西の坤の方角に閻魔大王を祀ることは当然のことであったと考えられる。
【土御門史蹟保存会】
(C)copyright ffortune.net 1995-2007 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから