賀茂探求(42)京都/大原野神社

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written by Lumi on 00/05/24 21:01.

この神社はこれまで見てきた神社と比べると、たいへん新しい時代の神社で す。延暦3年(784)長岡京建設の際に、藤原一族の氏神である春日大社の神を 勧請して創建されたものです。ただし現在地に御鎮座したのは文徳天皇の御 代の850年あるいは851年とされています。

位置的関係ですが、この大原野神社と河合神社を結ぶ線の上に、現在の御所 や二条城が乗っており、この線の延長線上に比叡山があります。しかしむし ろ使用された本来の線は大原野神社と、大原三千院とを結ぶ線かも知れませ ん。だいたい42度くらいの線でしょうか。この線の上に北野天満宮(当時は 火の神様を祀る神社があった)が乗っています。また大原野神社と元の御所 の位置を結ぶとこの線は東山のジャスト頂上を通過して、だいたい比叡山の 奥の院付近に到達します。これは方位角50度くらいの線です。

以前私は、京都の風水に関して、鬼門の艮の方位を賀茂神社や比叡山で守護 したのは分かるとして、裏鬼門の坤の方位はどうしたのだろう?という疑問 を呈していたのですが、やはり平安京の裏鬼門の守護はこの大原野神社以外 に、それらしきものが見あたりません。しかしどうも方位角がうまく合わな いのです。これにはひじょうに困っています。

大原野神社を現在地に移転させたのが850〜851のこととすると当時の実力者 は藤原良房。良房の甥で養子の基経とその子忠平は呪術に詳しかったようで すが、良房はどうだったのでしょうか。当時の政権のブレーンで呪術に詳し い人というともう弘法大師空海は亡く、関わったとすれば陰陽頭・滋岳川人 (しげおかのかわひと)あたりが浮上してきます。式占(ちょくせん)の達 人といわれた人です。川人は遁甲にも詳しかったといいますので、彼の時代 にこの位置に大原野神社の移転があったとすると、十分関わっている可能性 があると思います。

あるいはと考えたのは、この位置は木島神社から45度線、広隆寺から38度線 で結ばれています。38度線というのはつまり磁北を採った時の艮坤線です。

しかしこの神社で太秦を守護しても意味がないのであって、やはり当時の御 所の位置と何かかかわっていると思うのですが、御所と大原野神社を結ぶ線 は50度ですから、無理に解釈すると、羅盤の人盤(天盤=真北式,地盤=磁北 式)による艮坤線に近いとも考えられますが、こういうところで人盤が関わ ってくるのでしょうか。このあたりは分かりません。こういう大きな風水を 見る時は私は真北で行くものとばかり思っていたのですが。たとえば、日光 などというのは鎌倉の真北を守る聖地として発達したものです。(後に天海 はこれを江戸の磁北の守護として再利用したが)御所の位置から普通に艮坤 線を引くと、大原野神社と大歳神社の中間点くらいを通過してしまいます。

なお、比叡山の奥の院のほうがいつ頃開拓されたかも、今のところ資料不足。
良源(元三大師)が横川で活動していますから、少なくとも10世紀後半には できていたことになりますが。また北野天満宮の祭祀も10世紀後半ですから、 この付近のラインは実際10世紀後半に構築されたのかも知れません。この時 期には、三善浄蔵・賀茂忠行など、呪術関係の達人が続出しています。

ということで、この大原野神社、意味がありそうで、今のところ意味がよく 分からないのです。


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