賀茂探求(40)京都/木島神社(蚕の社)

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written by Lumi on 00/05/24 00:44.

この神社の名前は「木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてらみむすび のやしろ)」というのですが、一般の観光ガイドなどでは『蚕の社』で通っ ています。しかし、これは極めて不正確な言い方で、「蚕の社」である養蚕 神社(こかいじんじゃ)は、この神社の境内摂社です。

この神社はなんといっても、全国でおそらくここだけという三本柱の鳥居で 知られています。修学旅行などの見学コースにもよく入っていますので、こ の神社の名前を知らなくても、池の中に浮かぶ三本柱の鳥居は見たことがあ るぞ、と思う人も多いのではないでしょうか。

(ちなみに、日本で恐らく唯一の一本柱の鳥居は長崎にある。ただし、こち らは原爆で片脚が吹き飛ばされたためだが)
この三本柱の鳥居のある池は元糺(もとただす)の池と呼ばれています。当然 下鴨神社の糺の森との関連があるわけで、元々はここにあった祭祀を下鴨神 社が出来た時に向こうに移したため、こちらは「元糺」なのでしょう。

この神社は平安末期頃は、石清水八幡・伏見稲荷と並ぶ有名神社であったよ うです。延喜式でも名神大・月次相甞新甞。

■佐伯好郎のキリスト教遺構説

fmistyにもアクセスされている方は、多分この説聞いたことがあるのでは ないかと思います。これを説明するには、そもそもこの木島神社がある、 太秦(うずまさ)の地について説明する必要があるでしょう。
 
 太秦というと、一般には時代劇の撮影所があることで知られていますが、 もともと秦氏の土地なので「太秦」です。しかし「太秦」と書いて、なぜ 「うずまさ」と読むのかというと、これは難しい。
 
 日本書紀によれば雄略天皇15年に秦造酒(はたのみやつこさけ)に秦一族 の諸氏を統括するよう勅命があり、その秦の諸氏から集められた献上物が 「うずたかく」積まれたことから「禹豆麻佐(うつまさ)」の姓を賜ったと されます。姓氏録にも同様の記述がありこちらは「禹都万佐」になってい ます。日本書紀の表記は「うつもりまさ」「うづもりまさ」とも読めるそ うですが、名義抄により「うつまさ」であろうとされています。

この太秦の地にあるものというと、まず弥勒菩薩の半跏思惟像で知られる 広隆寺。そして摩多羅神の巡行する奇祭「牛祭」で知られる大酒神社。こ の大酒神社ですが元は大辟と書いていました。佐伯はこれは「ダビデ」と 読んだのではないかと推理します。ダビデを大闢と書いた例はあるそうで、 この「闢」が「辟」と略記されたのではないかという訳です。そして佐伯 は「うつまさ」の「まさ」は「メシア」ではないかとし「うつ」は「イエス」
 の音便ではないかと推理しました。

また更には、唐のキリスト教(景教,ネストリウス派)の寺院に「大秦寺」
 というものがあったことを発見し、この太秦の大酒神社は本来キリスト教 の施設であって、木島神社の三柱鳥居は、△と▽の合成で六芒星ダビデの 星になることから、この三柱鳥居もキリスト教に関わる遺跡ではないかと しました。

佐伯説に対する反対意見として年代の困難性をあげる人もあります。雄略 帝の時期というのは、いわゆる倭の五帝の時期なので年代が比較的はっき りします。だいたい西暦470〜480年頃です。これに対して中国に景教が入 ってきたのは635年とされていますので、この年代の矛盾はきつい。但し 日本書紀(720成立)に描かれた聖徳太子(574-622)の記述にキリスト教の影 響が見られることはよく指摘されることなので、635年以前にも多少入っ てきていた可能性があります。ネストリウス自身は450年頃のトルコの人 なので、当時の東西交流の速度からすると5世紀後半には中国でその思想 が知られていた可能性があります。

また大酒神社の御祭神は秦酒公・秦河勝・摩多羅神ですが、この河勝は、 上記聖徳太子の重要なブレインの一人です。ひょっとしたら十七条憲法も モーゼの十戒にインスパイアされたのかも知れません。聖徳太子ほどの人 であればキリスト教関連の文献くらい読んでいそうです。

■やはり六方拝礼の地か

近年、この三柱鳥居について注目されている説は、この鳥居が秦氏にとっ ての聖地を礼拝するものなのではないかというものです。
 
       双ヶ丘 ・ 愛宕山 / \ 四明岳 /   \ /     \ ・―――――――・ 松尾山         稲荷山 葛城

まず明確なのがこの三柱鳥居の一方から四明岳(比叡山)から登る夏至の 日の出を遙拝することができ、結果的に逆の柱の方向に当時の太陽が沈む 松尾山があります。
 
 そして三柱鳥居の一方からは夏至の日の入りが拝める愛宕山があり、逆に 反対側の柱の方向に、冬至の日の出が見られる伏見の稲荷山があります。
 
 そして残りの1本の柱の方角には双ヶ丘(ならびがおか)があり、ここに は秦氏との関連が噂される巨大な古墳群があります。この双ヶ丘(仁和寺 の南方・妙心寺の西)は松尾大社と上賀茂神社を結ぶ艮坤線の上にも乗っ ています。

そして、最後のこの双ヶ丘と反対側の南向きの鳥居の方向にたどっていく と、桂離宮・石清水八幡などの近くを通過して、葛城の一言主神社や高鴨 神社の付近に到達します。まっすぐにたどった線は一言主神社の少し東、 長柄神社の少し西付近を通って、ちょうど風の森神社の付近を通過します。

恐らくは、はじめこの付近に展開した鴨一族が、故郷の葛城の真北の地に 神社を建て、それを後に秦氏が受け継いで、その経度線上で松尾大社から の艮坤線とぶつかる場所・双ヶ丘に古墳を築いて聖地としたのでしょう。
 
なお、この三柱鳥居があるのが元糺の池(もとただすのいけ)で、下鴨神社 と河合神社の間の糺の森(ただすのもり)と当然関連しています。この糺の 森の本来の所属については「太平記」に「河合」と書いて「ただす」と読ん でいる例があることから、元々河合神社に所属していたものと考えられます。

肝心の「ただす」については大和岩雄氏は「朝日の直刺す」(古事記の迩迩 芸命の項)から来たのではないかとします。つまり松尾神社から見て朝日の 直刺す方角にあるから「糺の池」であり「糺の森」なのでしょう。しかも 下鴨神社の御祭神は「多多須玉依比売命」です。

なお、松尾大社はほぼ葛城山の真北に位置しています。

ところで、この木島神社の御祭神ですが、火明命とする説と、天御中主神迩迩芸命・穂々出見命・鵜葺屋葺不合命の四神とする説とがあります。いづ れにしても、火−太陽に関連する神ということのようです。これも夏至冬至 の太陽の日出日入を4つの山に見ることのできる聖地だからでしょう。

またこの神社の読み方ですが、天照御魂を延喜式の吉田家本では「あまてら すみむすひ」、金剛寺本では「あまてるみむすひ」と読み、神名帳考証その 他では「あまてるみたま」と読んでいます。現在は一応「あまてるみむすび」
を正式の読み方としているようです。


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