↑ ←→賀茂探求(37)京都/伏見稲荷
written by Lumi on 00/05/20 17:08.
京都駅からJR「奈良線」に乗って稲荷駅下車。 人の流れにそって行けば、すぐの所に伏見稲荷の朱色の拝殿があります。 この神社の祭祀を始めたのは秦伊侶具で、元明天皇の御代・和銅4年(711)に 勅命により稲荷山の三箇所に社を建て三社三社の大神を祭ったところ、五穀 大いに実り養蚕なって天下の百姓が豊かな福を得たとされ、これが祭祀の最 初とされます。 また、鎌倉時代の「年中行事秘抄」や室町時代の「二十二社註式」では和銅 年間に伊奈利山の三つの峰に神が示現したのでこれを祭ったとされています。 しかしこれが山城国風土記逸文@神名帳頭註では、秦伊侶具は悪者にされて います。  伊奈利と称するのは、秦中家忌寸らの遠祖・伊呂具の秦公は稲や粟などの  穀物を積んでゆたかに富んでいた。それで餅を使って的とし(て矢を射)  たので(餅は)白い鳥に化して飛びかけって山の峰に居た。伊禰(稲)奈利  生いた。ついに社名とした。その子孫の代になってあやまちを悔いて、社  の木を根こじて引き抜いて家に植えてこれを祈り祭った。今その木を植え  て生き付けば福が授かり、その木を植えて枯れると福はないと言う。 この物語について伴信友は、元々の形としては、餅を的にするようなことを したために穀霊が逃げてしまい、土地が荒れ家も衰えたのを、子孫が悔いて きちんとお祭りしたため元どおり豊かになったという話だったのではないか、 と考察しています。 これからすると「いなり」は元々は「稲生り」あるいは「稲成り」だったの かも知れません。現在でも全国で何社か「稲生」「稲成」と書くいなり神社 があります。 平安時代初期には秦一族の一系統であるこの祠官家の中で、親子継承方式で はなく、一族の中で最も優秀な者が宮司になる方式で祭祀を引き継いでいっ たといわれますが、平安末期から鎌倉初期にかけては秦一族の地盤沈下に伴 いこの神社も荒れて梁塵秘抄には「稲荷には禰宜も祝も神主も無きやらん、 社壊れて神さびにけり」という状況に陥っていたようです。 それが中世の商業の発展に伴い、その守護神として庶民信仰に支えられる形 で復活していきます。荒れていた社殿が応仁の乱で完全に焼け落ちたのち、 明応8年(1499)に現在まで残る社殿が建築された後、恐らくは次第に実力を 付けてきた商工業者がここを支えていったものと思われます。またこの伏見 稲荷は東寺との関連が深く、真言宗の普及に伴う効果もあったようですし、 また熊野信仰に絡み、熊野詣での途中の重要な寄り所としての発展もあった ようです。そして16世紀後半になると豊臣秀吉に保護され、その後徳川幕府 にも支援されて更に隆盛していきます。 伊侶具が祀ったのが三座ですし、延喜式(927)でも紀伊郡に稲荷神社三座と 書かれていますので本来三柱の神だったと思われますが、現在の伏見稲荷は 五座の神が祀られています。梁塵秘抄(1179頃)の段階で既に「三座というが 五座ある」と書かれていますので、平安時代に5座に増えてしまったようで す。これは現在下記の神とされています。   下社(中央座)   宇迦之御魂(うかのみたま)大神   中社(北座)    佐田彦(さたひこ)大神   上社(南座)    大宮能売(おおみやのめ)大神   田中社(最北座)  田中(たなか)大神   四大神社(最南座) 四(しの)大神 この神々の関係については、一般には佐田彦大神の奥様が宇迦之御魂大神と 大宮能売大神で、田中大神と四大神(四之大神とも)はその御子ではないか との説があるようです。ただし一般的には稲荷神の中核は宇迦之御魂大神と みなされています。 麓の拝殿でお参りしたあと、右手奥社の方に回り、そこから千本鳥居を抜け て、お山に登ります。三つ辻を経て四つ辻から右手へ。やがて三の峰、二の 峰、一の峰の大量のお塚に至ります。このお塚に祀られている神の数は軽く 1万座を越えるのではないかと言われています。このそれぞれの神を全国の どこかで「○○稲荷大明神」として祀られているわけです。一の峰から先の 下り坂に今度は立派な鳥居がまた多数連なっています。そのあと、長者社や 眼力社などのあるところをまわって一回りして四つ辻に戻ります。この四つ 辻から逆方向に行くと田中社があります。帰りは三つ辻からまっすぐ下に降 りると、玉姫大神のところを抜けてまた麓の本殿のところに戻ります。戻っ てきたら、ここは焼き鳥か稲荷寿司を食べて、約2時間のお山巡りは終わり です。 なお、最初に神が示現した場所ですが、三箇所というのは、現在の麓の本殿 の地と、一番上の一の峰の場所と、もう一箇所は三の峰付近ではないかとも 言われているようです。 また、さきほどこの神社の祠官家を秦一族と書いたのですが、実はこの稲荷 山には、秦一族が祀る稲荷神社と、荷田一族が祀る稲荷神社がありました。 秦一族にはその本家筋が3つあり、荷田一族には2つあって、秦氏のことを 三家、荷田氏のことを両家ともいいます。後世にはさらに次のように分化し ています。   秦氏 西大西家 東大西家           秡川家  安田家      松本家  南松本家 中津瀬家                鳥居南家      森家   毛利家   荷田氏 東羽倉家 北羽倉家       西羽倉家 京羽倉家 以前は荷田の稲荷社にお参りする道と、秦の稲荷社にお参りする道が別々だ ったのですが、現在は一本化されています。三の峰と二の峰の間にある荷田 社や麓の本殿そばの東丸神社は荷田系の稲荷社です。 --------------- (編集註)  この伏見稲荷の佐田彦大神について、出雲の佐太大神と関連があるのでは  ないか、という意見もあるようです。

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