賀茂探求(31)大阪/溝咋神社

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written by Lumi on 00/05/13 04:47.

タイトルにもあるように、三島溝杭姫の本拠地は大阪府です。

ここは茨木童子で有名な、茨木市の五十鈴町。

神社の名前は溝咋(みぞくい)神社。延喜式では摂津国嶋下郡に

溝咋神社 鍬靫

と書かれています。御祭神は資料によると、

正殿 媛蹈鞴五十鈴媛命および溝咋玉櫛媛命 相殿 三島溝咋耳命、天日方奇日方命、 素戔嗚尊天児屋根命

であり、境内に下記のような神社があるそうです。

事代主神社・天照皇大神社・保食神社・手力雄神社・木花開耶姫命神社

次に大阪方面に行ったらぜひ訪れてみたいと思っています。

この神社を知ったのは、ものすごい偶然でした。

今回の旅行から戻って補足資料を図書館で調べていて、私は関西付近の神社 の資料の中から、京都賀茂神社の項を見ようと思ってページをめくっていま した。その時突然、偶然にもたまたま開いたページにこの神社の名前が踊っ ていたのです。え?と思って手を止めると、その次のページには三島鴨神社 の名前が載っていました。私は慌てて、その付近を読み始めました。

まさに、事代主神の託宣という感じです。親切に教えてくれたのでしょう。
感謝。

あまりにも喜びすぎて、この資料の書名をメモしてくるのを忘れました。近 い内にまた行くと思いますので、その時メモしてきます。(^^;;

さて、この資料によりますと、三島というのは淀川下流の三島江のことで、 昔はその淀川の幅広い流れの中に多数の中州が点在していて、これを御島あ るいは三島と呼んだのだそうです。

溝咋神社のある場所は、もっと下流の方では淀川と並行して流れる安威川の そば、その安威川が北の竜王山方面から流れてきて、淀川にぶつかるちょっ と手前で西に曲がり、淀川に並行し始める付近に立っています。

溝咋とは溝、つまり河川に杭を打って、この安威川の水を管理していた一族 であるといわれます。溝咋神社の付近に溝咋遺跡・目垣遺跡・東奈良遺跡な どといった古い遺跡が見つかっており、東奈良遺跡からは銅鐸も出土してい て、これは一種の技術集団であったのであろうと、この資料の解説者松下煌 氏は語っています。

そしてこの神社の東2.5kmの所に、先に触れた、日本で最初の三島神社といわ れる三島鴨神社が御鎮座しています。そこにも事代主神は祀られています。

この溝咋神社が建っている場所は昔は溝咋村といい、その後玉島村(三島郡) という名前に変わっていたのですが、現在はこの神社の御祭神にちなんで 五十鈴町という名前になっています。

この付近の一連の神社については、また追って述べたいと思います。

賀茂一族は、葛城からまず奈良盆地北端の木津川流域(現木津町)に進出し、 ここに岡田鴨神社を遺しています。この木津川は昔は鴨川と呼ばれていたそ うです。

木津川を岡田から下流に下って行きますと、やがて八幡市で宇治川・桂川と 合流し、淀川となります。この三川合流点のそばに石清水八幡宮が立ってい ます。

賀茂一族も恐らくは一時期この八幡市に居したと思うのですが、その後今度 は桂川を遡って山城国に入ったのでしょう。八幡市の三川合流点から8kmほど 桂川を遡ると、今度は桂川と鴨川の合流点(久我)に到達します。

そこで大和岩雄氏は賀茂一族と秦一族はそろって木津川から八幡市→久我と 移動したあと、秦一族がそのまま桂川を遡って嵯峨野方面に行き、賀茂一族 は鴨川の方を通って愛宕方面に展開したのではないかと推測しています。

しかし鴨川水系の方に秦一族に極めて関連の深い伏見稲荷があることを考え、 下鴨神社には秦氏の色彩が強く、また賀茂一族の伝承では最初葛野に居たの をあとで愛宕に移ったと言っていることなどを合わせると、両者はけっこう 入り乱れていたのかも知れません。

ともかくも、京都は間違いなく、秦一族と鴨一族が共同で開発した土地です。

事代主神が「熊鰐に化して」三島の溝咋姫の所へ通うという話は、賀茂一族 が葛城にいた時代ではなく、木津町岡田の地に出てきた時期以降の話という ことになりそうです。

岡田の地からですと、事代主神は木津川を下り、淀川を下って、安威川を今 度は遡って、溝咋姫のところへ通ったことになります。ただし淀川と安威川 が直接つながっていなかった場合は、淀川→芥川→玉川→安威川という経路 があります。時期的には恐らく雄略天皇くらいの時代なのでしょう。


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