賀茂探求(27)木花咲耶姫と富士山

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written by Lumi on 00/05/09 16:37.

さて、木花咲耶姫は現在富士山の神とされているのですが、そういうことに なったのは比較的近世ではないかと言われています。

富士山の神様に関する古い記述としては、常陸国風土記の話が有名です。

ある時、祖神尊(みおやのかみのみこと)が多くの御子神のもとを様子を 見に回っておられた時、福慈(富士)の岳のところで日が暮れてしまいまし た。そこで祖神尊が、今晩泊めてくれといいますと、福慈神は「今、新穀 の初嘗で家中のものが物忌みをしておりますのでお泊めすることはできま せん」と断ってしまわれました。

すると祖神尊は嘆いて、「お前の住んでいる山は、お前がここにいる限り、 夏でも雪が降り、人が近寄れないようになるだろう」とおっしゃいました。

そして祖神尊は日が暮れてしまった中を筑波の山まで来て、筑波神に宿を 乞いました。すると、筑波神は「今夜は初嘗を致しておりますが、母上様 をどうしておもてなししないことがありましょうか」と言って、家にあげ て飲食物を用意して丁重に奉仕なさいました。

すると祖神尊は喜んで

愛乎我胤 巍哉神宮 天地竝斉 日月共同 人民集賀 飲食豊富 代々無絶 日日弥栄 千秋万歳 遊楽不窮

(愛しい我が子よ、高い神の宮よ、あめつちと共に、ひつきと共に、 人ら集い喜び、たべもの豊かに、よよ絶えず、ひましに栄え、 とこしえに、遊び窮まらじ)

と歌を歌われました。そのため、現在でも筑波山には多くの人が気軽に登 り、みんなで楽しく歌い、舞い、飲み、食い、するのだとのことです。

この話に出てくる福慈神は木花咲耶姫とは思えません。

実際富士山の神は古くは富士明神、浅間大神、浅間大明神、富士権現、浅間 大菩薩などと呼ばれており、木花咲耶姫であるという説が固まるのは、江戸 時代の寛政年間(1789-1800)頃ではないかとの意見もあるようです。

また富士山の神様が男神か女神かについても古くから両論があったようです。

平安時代の末代上人という人が「浅間大菩薩、男体にて顕れたまふべきに女 身にて現じたまへり」といって、これは自分の修行が足りないからだといっ て富士山中で断食の行をしたという記事があります(地蔵菩薩霊験記)同じ く平安時代に、富士山頂で乙女が舞う姿を見たという記事もあります。

窪寺紘一氏は、竹取物語の影響から富士山と女神が結びつき、富士山の女神 というのであれば、やはり全国の山を管理する大山祇神の娘である木花咲耶姫 がふさわしいということで定着したのではないかと推論しています。

木花咲耶姫と富士山の結びつきに関して、一説では大同年間に坂上田村麻呂 が勅命により里宮を築いた時、伊勢の朝熊神社に祭られていた木花咲耶姫の 分霊を勧請したことに始まるともいわれます。(よってアサグマが詰まって アサマになったという)

つまり当初は富士大神と併せて天皇家の祖先である木花咲耶姫を、火の中で 出産したという神話から火を制御できるもの、つまり火山を鎮めることので きる神として一緒に祭祀したという説があります。ただし現在の朝熊神社の 御祭神は大年神(あわせて苔虫神・朝熊水神を祀る)ですので、この説に関 してはもう少し検討が必要かも知れません。

なお小室浅間神社に伝わる富士古文献(宮下文書)では、三兄弟を産んだ後 木花咲耶姫が富士山の火口に飛び込む記述がありますが、上記の考察から、 逆にこの文献自体が19世紀以降に成立したものと推測可能です。

さて、伊豆の三嶋大社の御祭神は明治初期の頃までは大山祇神とされていた のが萩原正平が伊豆の伝承を調査して、実は本来は事代主神であったことを 発見するのですが、これも富士山に木花咲耶姫がおられる故に、そのそばの 三嶋大社に、お父さんの大山祇神がおられるという話に展開したのではない かという推測も出来ます。(三嶋と事代主の関わりについては後日、三嶋鴨 神社のところでまた触れます)

常陸国風土記は、富士には人が寄りつかないであろうと祖神尊が言うのです が、確かに富士山には古来はかなりのレベルの修験者でなければ近づくこと はできなかったようです。それが江戸時代になると富士講ができて、盛んに 一般の人が登るようになります。

そして、それが時代的にも、富士山の神が木花咲耶姫と考えられるようにな った時期と対応しています。あるいは福慈神が去って木花咲耶姫と交替した ために、人が来るようになったのかも知れません。


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