賀茂探求(25)賀茂と出雲

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written by Lumi on 00/05/07 04:33.

さて、味鋤高彦根神にしても事代主神にしても、出雲の大国主神の子供とさ れており、出雲と賀茂の関係というのも考えてみざるを得ません。

出雲に大きな国家があったかどうかについては以前は否定的意見が多かった のですが、近年大規模な遺跡の発見が続いたことにより、肯定派が増えてい るようです。

賀茂と出雲の関係を考える場合、どちらかというと否定派の意見に従った方 が楽な面もあります。

大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)とされるのが大物主神で、 これは大和の三輪山の神です。地理的なことをいうと、葛城のちょうど東北 の方位に三輪山があり、両者の中間点に大和三山そして橿原神宮があります。

大国主神がもし大物主神をベースに後日成立した神格であれば、大国主神味鋤高彦根神事代主神一言主神といった神々が全て大和の地で生まれた ことになってしまいます。すると「出雲」の神々というのは、すなわち全て 大和の神々なのではないか、ということになってしまうわけです。

そして純粋に出雲の神様というと、佐太大神を中心として、国寄せをした 八束水臣津野命、そして出雲族の祖先神である天穂日神などといったところ になってきます。

ところで北緯36度線という話があります。正確にはだいたい北緯35度20分か ら北緯36度の間なのですが、この帯域に下記のようなポイントが乗っかって います。

鹿島神宮   35.58  富士山山頂  35.21  大山山頂   35.22 香取神宮   35.53  御嶽山山頂 35.53  美保神社   35.33 皇居     35.40  白山中宮   36.02  佐太神社   35.30 大宮氷川神社 35.54  永平寺 36.03  熊野大社   35.22 阿伎留神社  35.43  竹生島弁天  35.25  出雲大社   35.23 川崎大師   35.31  名田庄村   35.22  日御碕    35.25

この緯度線は日本列島の中で、東西の延長が一番長い線なのだそうです。そ して、その最大長の緯度線の東側、日が昇るところに、建甕槌神・経津主神 を祀る鹿島神宮香取神宮があり、日が沈むところに、大国主神素戔嗚神 を祀る出雲大社熊野大社がある。従って建甕槌神・経津主神は昼の世界の 守護者であり、大国主神素戔嗚神は夜の世界の守護者なのでしょう。

これはあまりにもできすぎた配置であり、計画的にそう配置したのだといっ ても納得してしまう感じです。

そこで梅原猛氏などは出雲大社などは国譲神話が出来たあとに建築されたも のではないか、などと考察しています(「神々の流竄」)。

しかし。

やはり私は出雲に巨大な王権があったと考えています。また吉備の王権と連 合して、中国地区に製鉄技術をベースにした強力な勢力になっていたのでは ないかと考えています。

そして、やはり大国主神は出雲の神様なのだろうと思います。そして一方の 大物主神は三輪山の神様で、両者はもともとは無関係だったのが、後世同じ 神とされたのではないか。

そういう気がしています。

ですから、味鋤高彦根神事代主神はどちらかというと大物主神と縁が深い のでしょう。それが出雲の神話にも出てくるのは、やはり葛城勢力の一部が 出雲に移住したからではないか、とも考えています。

この移動をしたのは事代主神を頂く一族でしょう。

例えば旧事本紀によると、事代主神の四世の孫の建飯勝命は「出雲」臣の 沙麻奈姫と結婚して五世の建甕槌命をなしています。また九世の大田々禰古 は「出雲」神門臣の美気姫と結婚して大御気持命をなしています。更にこの 人は「出雲」鞍山祇姫と結婚して大鴨積命をなしています。

上記で建甕槌命というのは鹿島神宮の御祭神と同名ですが偶然でしょう。又 大田々禰古は同名の人が古事記・日本書紀の崇神天皇の所に出てきます。そ この記述では無名の人で、三輪神と活玉依毘売との間に生まれた子供の子孫 であるとして、天皇から大物主神の祭祀を命じられています。この神婚伝説 は京都賀茂神社の賀茂別雷神の誕生説話と同型の伝説です。また古事記では その父の名前を建甕槌命と言っています。

どちらかというと旧事本紀の記事の方が混乱しているようにも見えます。が やはり、事代主の子孫が出雲と関わりが深かったことは示唆しているのでは ないかと思います。

ただ上記の「出雲」がほんとうに島根県の出雲であるかどうかは、もう少し 検討の余地があります。京都にも出雲という地名はあります。

ひじょうに大胆かつ大雑把な想像をすると、神武東征が西暦270年頃として、 その頃から7世紀頃まで400〜500年間葛城に強力な豪族が勢力を持っていた とすると、ちょうど40世代くらいの当主がいたと考えられ、高天彦神社にあ った三十八祖というのとも対応しています。

そして崇神天皇が四道将軍を派遣して大和朝廷の勢力を拡大したのが多分4 世紀の半ば頃。その頃、葛城勢力の一部が出雲へ移動したのかも知れません。
そして美保関に美保神社を作ったのでしょう。

そして、外からやってきた人たちだからこそ、美保神社に祀られている神は 「えびす」だというわけです。

その移動経路に当たるのが、堺市の石津神社、神戸市の長田神社、一宮町の 庭田神社、亀岡市の與能神社、湯原町の長田神社、などかも知れません。

そして、この事代主の一族の一部はその後更に伊豆まで移動したのではない かというのが、最近想像していることです。伊豆についてはまたあとで述べ ます。


(Aprilさんのコメント:要点) 元出雲、元伊勢の事ですか? ここは私も一度調べに行きたいポイントの一つです。
 また、出雲族と素戔嗚神の関係も結構癖ものです。

(お返事)

元伊勢に関しては岡野玲子さんの、伊勢神宮を結界するための反閇という説 が面白いと思っているのですが亀岡市の元出雲に関しては、まだ判断保留の 状態。そのほかに京都賀茂神社のある愛宕郡にも出雲の地名はありますね。

熊野っつうたら紀州だろう、と思っていたら出雲に古い熊野大社があるし、 賀茂っつうたら京都だろう、と思っていたら葛城に古い賀茂神社があるし、 三島っつうたら伊豆だろう、と思っていたら大阪に古い三島神社があるし、

神様の世界は深いですね。

やはり昔からほんとに人はよく移動してるんでしょうね。私が住んでる福岡 なんてのも、岡山の福岡から来ているようですし。安房(あわ)は阿波(あわ) の人たち(忌部氏)が移住したもの。安曇野は北部九州の安曇一族が開拓し た地域。

出雲と葛城に関して、上田正昭さんは、味鋤高彦根神にしても事代主神にし ても、もともと出雲の神様であって出雲から葛城に移住した人々が、一連の 神社を作ったという意見だったようです。私も昔はそう思っていたのですが 葛城に行ってから気が変わりました。

味鋤高彦根神については先日北斗柄さんから竹内健さんの論文を見せていた だきまして、ちょっと面白い考察がされていたのですが、それについてはま た後で簡単にでも紹介できればと思っています。


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