賀茂探求(24)一言主神について

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written by Lumi on 00/05/06 23:02.

私が味鋤高彦根神が葛城と関わりの深い神ということに気づくきっかけにな ったのは一言主神に関する一件でした。

一言主神味鋤高彦根神とともに高知県の土佐神社に祀られていますが、こ の事情について、示唆する文献を下記にまとめて引きます。

古事記・雄略天皇の項 天皇が葛城山に登った時、天皇の一行と同じ程度の人数、同じ程度の衣 装・装備の一行と出会った。天皇が「この国に私の他に大王はいないの に私と同じような格好はするのは誰だ?」というと、向こうも同様のこ とを言い返して来た。怒った天皇は部下に矢をつがえさせると、向こう も矢をつがえた。
  
  そこで天皇が「まずお互いに名を名乗ろうではないか。戦うのはそれか らでいい」というと「私が先に聞かれたから先に名を名乗ろう。私は善 いことも悪いことも一言で言う神、一言主神である」と言った。
  
  天皇は畏まって、自分たちの着ていた衣服や武器を全て一言主神に献上 した。神はそれを受け取り、天皇の一行が山から降りる時は丁寧に送っ てくれた。葛城の一言主神はこの時初めて示現なさったのである。

日本書紀・雄略天皇の巻 天皇が葛城山に狩りに行ったとき、長身の天皇とよく似た人と出会った。
  天皇が「どちらの君ですか?」と訊ねると「私は神である。先にあなた が名乗りなさい」というので、天皇が「幼武尊と申します」と答えると 「自分は一言主神である」といい、天皇と神は一緒に狩りを楽しんだ。

日本霊異記 役の行者が葛城の峰と吉野の金峰山との間に橋を架けようと考え、葛城 の一言主神に仕事をさせた。すると一言主神はあまりにこき使われるの でこれを嫌がり、天皇に「小角は謀反を企てている」と讒言した。その ため小角は伊豆に流された。
  ※続日本紀の文武天皇3年5月24日の記事では讒言したのは韓国連広 足になっている。広足は役行者の弟子であったと書かれています。

土佐国風土記逸文 次の文書にも引用されているので略

続日本紀・称徳天皇 次の文書にも引用されているので略

土佐国式社考/谷泰山著(1705) 延喜式・都佐坐神社 これは当国の一の宮であり、いわゆる高賀茂大明神である。八頭花鏡を 御神体とする。

土佐国風土記にこう書いてある。『土佐郡に土佐高賀茂大社がある。そ の神名は一言主尊である。重遠が按ずるに、旧事紀に、素戔嗚尊の子な りという。一説には大穴六道尊(大国主神)の子の味鋤高彦根尊ともいう』

続日本紀にはこう書いてある。高野の天皇(称徳天皇)の天平宝字八年 (764)、法臣円興、その弟の中衛将監従五位下、賀茂朝臣田守等言う、 昔、大泊瀬の天皇(雄略天皇)葛木山にて狩りをする時老夫があった。
  しばしば天皇と獲物を獲り争った。天皇はこれを怒って、その人を土佐 国に流した。先祖の主神が老夫に化成していたのを放逐したのである。
  これが高鴨神である。

結局のところ、同じエピソードが、最初古事記の記述では一言主に対して天 皇が畏まっているのに対して、日本書紀の記事では同格になっており、続日 本紀では天皇が一言主を流罪にしたことになっています。時代とともに葛城 の一族の地位が低下していったと解釈する人もあります。

ともかくも上記続日本紀の記述の続きでは、その雄略天皇の御代に流罪にな っていた一言主神を葛城に戻すことを許したことになっています。そして、 土佐神社には引き続きその和魂(にぎみたま)が祀られることになります。

この一言主神の出自について、旧事本紀は、素戔嗚神の子供で、大国主神大年神稲倉魂(うかのみたまのかみ,お稲荷さん)らの兄弟であるとして います。古事記では一言主神雄略天皇の所まで出てこず、大国主神は素戔 嗚尊の五世の孫になっています。

土佐神社ではこの付近の伝承が入り乱れて、一言主神味鋤高彦根神は同じ 神であるという説も出ているようですが、やはりそれは混乱というものでし ょう。伴信友は「瀬見小河」の中で土佐神社の御祭神を味鋤高彦根神とする のは「高鴨」という名前につられた誤謬であり、この神社の御祭神はやはり 一言主神ただ一座であろうと推定しています。

私は、一言主神味鋤高彦根神よりもむしろ事代主神にゆかりの深い神、ひ ょっとしたらその別魂かも知れない、という気がしています。


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