 賀茂探求(4)徳川家康と賀茂神社
written by Lumi on 00/04/29 20:52.
さて、京都の賀茂神社といえば「葵祭り」、徳川家康といえば「葵の紋」で
すが、これは関係あるのでしょうか?
実は大いに関係があるんですね。
徳川家の先祖は家系図によると下記のようになっています。
八幡太郎・源義家の孫に義重という人がいた。義重は群馬県の世良田に館
を築き、新田庄を領して新田姓を名乗った。この義重の子の義季は得川郷
に住して得川姓を名乗った。
その後、建武の中興の折り、新田一族の新田義貞は後醍醐天皇に付き従っ
たため一族は足利幕府に睨まれることとなった。このため義季から8代目
に当たる人・得川有親もこの地にいれなくなり、息子の親氏とともに遊行
僧となり、長阿弥・徳阿弥と名乗って諸国を放浪した。
やがて親子は三河国加茂郡に流れ着き、ここで酒井五郎左衛門に保護され
て、親氏は婿になって広親という子供をもうけた。この酒井家は後に徳川
の四天王になる酒井家であり、酒井忠勝は広親から8代目の子孫である。
しかし、この親氏の妻が早く亡くなったため、親氏は更に同所の松平太郎
左衛門の家の婿になり、泰親という子供をもうける。徳川家康はこの泰親
から8代目に当たる。
そういう訳で、酒井家というのは実は徳川からすると本家筋に当たる訳です
が、この三河でもうひとつ重要なのがやはり四天王のひとつ、本多家です。
三河という名前は一般に、豊川・矢作川・男川の3つの川が作る地域という
意味とされていますが、もうひとつ「御川」あるいは「神川」から来ている
という説があります。そしてこの御川というのが神の山・賀茂神社の御神体
となっている山から流れ出している川だという訳です。
三河を代表する川というからには、この御川は矢作川のことと思われるので
すが、実はまだこの「神の山」と対応する賀茂神社の特定ができていません。
愛知県で賀茂神社というと豊川の流域の豊橋市にある加茂神社があり、その
そばには神山古墳まであります。この加茂神社は家康が長篠の戦の前に必勝
祈願をしたりなど、深く信仰した神社です。
が、この神社は天平年間に京都の賀茂別雷神社より勧請して創建されたもの
なので「三河」の名前の由来になるわけがありません。もっと古い神社がど
こかにないと「御川→三河」説は証明できません。
一方の矢作川は知多湾から岡崎市・豊田市のそばを通り、西加茂郡と東加茂
郡を分けるように流れ、源流はいったん岐阜県に入ったあとで愛知県に舞い
戻って、茶臼山(1415m)付近になります。しかしこの流域に大きな古い神社を
見つけることができません。
閑話休題。
ともかくも、御川→三河説があるくらいに、やはり三河の地というのは賀茂
神社に関わりが深かったようで、更に松平家が栄えた地自体が、昔賀茂神社
の神領であった地区だったようです。そしてその賀茂神社の神官の家柄が
徳川四天王のひとつ、本多家でした。
この本多家も賀茂神社由来の葵紋を使っており、松平家は初めのころ、この
本多にならって、或いは賀茂神社のご加護を受けるという意味もあり、葵を
家紋として使用しはじめたようです。
後に、天下統一をしてから、他の諸家で葵を家紋としていたところが徳川に
遠慮して家紋を変更した中、本多だけはこの葵紋を使用し続けました。
ある時、徳川家康が本多正信に「あの家紋を譲ってくれないかな」と言った
所、家康にタメグチを利ける数少ない一人である正信は「それはおかしなこ
とを。徳川家は元々新田一族。本来なら新田の一つ引両をお使いになるのが
よろしいのでは。本多は賀茂神社に仕える身にて神社の神紋たる葵を使って
おります」といって頑として譲らなかったと言われます。また異説ではこの
時「茎までは譲れません」と言ったため、徳川の葵は茎の無い葉だけの葵紋
になったともいわれます。
いづれにせよ、この徳川の世で本多家だけが堂々と葵を使うことができるよ
うになったようです。
そういうわけで、結局、徳川家の葵紋も、賀茂神社から来ていることになり
ます。

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