↑ ←→賀茂探求(3)陰陽道の賀茂家と賀茂一族
written by Lumi on 00/04/28 19:40.
賀茂という名前から、最近は別の一族を連想する人もあるかと思います。 それは近年関心が高まっている陰陽道(おんみょうどう)の宗家のひとつの 賀茂家です。 陰陽道の賀茂家は、朱雀天皇・村上天皇の2代に仕えた、賀茂忠行(900頃?- 960頃?)に始まります。 忠行は藤原純友・平将門の乱(935-941)の時に白衣観音法を修めるよう進言 しています。この呪法は当時密教僧たちにも知られておらず、結局真言宗の 寛静が忠行に学んで、これを修めたといわれます。 また天徳3年(959)には村上天皇が射覆(せきふ)と呼ばれる当て物を試みた所 天皇が隠し持っていたもの(水晶の念珠)のみでなく、それを入れた入れ物ま で当てたといわれます。 この賀茂忠行が、前回の役行者の家系とつながっている、という話は村山修 一氏をはじめいろいろな人が書いていますが、ちょっと典拠は分かりません。 忠行の出自はよく分からないのですが、続群書類従に掲載された系図では、 忠行の5代前に賀茂吉備麻呂という人がいて、時々これを吉備真備(在右大臣 766-771)と混同する人がいますが、無関係のようです。吉備麻呂は孝霊天皇 の血筋を引いているともいわれます。(確かに孝霊天皇皇子の稚武彦は吉備 臣の先祖とされていますが) 忠行の子の賀茂保憲(917-977)は父よりも優秀で、陰陽頭まで務めました。 更に保憲の子の光栄(939-1015)も優秀な人だったようです。 忠行が保憲とともに大事にした弟子が安倍晴明(921-1005)で、忠行の引退後 は保憲の弟子となり、やがて、保憲は陰陽道の極意のうち、天文道を晴明に 譲り、暦道は光栄に継がせます。この結果、これ以降、陰陽道の世界では、 賀茂・安倍(後に土御門と名乗る)両家による支配が長く続くことになります。 そして後に、賀茂家の正統は永禄8年(1565)賀茂在富が、子供がなかった為 跡継ぎと定めていた親戚の子が誰か(実父という説が強かったらしい)に殺害 されたあと、それに代わる養子を取れないまま急死。断絶してしまいました。 (7月には元気そうだったのが11月には亡くなったとあるので、かなり進行 の早いガンであったものと思われます) その後は宮中の指令により、当時の土御門家の当主・有春の子の有高が賀茂 の名前を継いでいます。なお、この有高の子の久脩(1558-1625)は逆に安倍 家に戻って土御門を継ぎ(結果的に天文・暦両道を一人で継ぐことになった)、 彼が徳川家康に仕えて、陰陽道を再興、それ以降250年間の江戸時代におけ る土御門家の陰陽道支配体制の基礎を作ることになります。 安倍久脩は近世陰陽道及び土御門家の中興の祖です。(土御門家は現代まで 続いている) 忠行にせよ晴明にせよ、実際には下級役人の子であったようで、それが特殊 な方面で卓越した技能を持つことにより、大出世をしたのでしょう。忠行自 身は陰陽頭にはなれずに子の保憲がなっていますし、晴明も陰陽頭にはなれ ずに子の吉昌がなっています。どんなに優秀な人でも当時の安定した体制の 中では、そのジャンルのトップに立つには2代必要だったのかも知れません。 忠行も晴明も優秀な子供に恵まれたようです。 -------------------- (北斗柄氏からのコメント:要約)  結局、安倍賀茂も中級貴族留まりだったわけで、現代でも技官がトップに  立てない官僚システムを彷彿させますね。 (お返事) 安倍晴明は最終的に従四位下、子の吉平は従四位上、4代先の泰親がやっと正四位上。 賀茂忠行は最終的に従五位下、子の保憲が従四位上、その子の光栄も従四位上。 といったところのようです。 忠行は六位だったのが、保憲が父を追い抜いて先に従五位下に至ったため、 特に父にも従五位下を賜ったとも伝えられています。 だいたい当時の官位というのを概観すると 一位:太政大臣相当。時の超実力者。ひょっとしたら天皇以上。 二位:左大臣・右大臣。今で言えば総理大臣とか国会議長クラス。 三位:大納言・近衛大将。今で言えば国務大臣クラス。 四位:中納言・左大弁・右大弁・蔵人頭。今で言えば政務次官・事務次官クラス。 五位:少納言・大輔・大舎人頭・陰陽頭。今で言えば官庁の局長・所長クラス? 六位:大丞・大学博士・陰陽助・大国介。今で言えば部長クラス? 七位:大録・文章博士・陰陽博士・近衛大尉。今で言えば課長クラス? 八位:少録・呪禁師・衛士・大国大目。今で言えば係長・主任クラス? 大初:今で言えば、平とか見習いとか臨時職員とか? といった感じであったようですね。陰陽頭は五位でもなれるので吉平の弟の 吉昌は正五位下で陰陽頭になっていますね。兄の方が位は上なのに、頭にな ったのは弟の方。この兄弟も面白い。なお、吉昌が陰陽頭になったのは1015 年。吉平の死去は1026年なので兄は生きていたが役職の上では飛び越してし まったもようです。恐らくこの二人は才能の出方が違うのでしょうね。技術 者としては多分兄の方が上だったが、管理能力では弟が勝っていたのでしょ うか。 陰陽寮というのは、私は今で言えば東大の理科系学部と国立天文台を合体さ せたようなものだったのではないかと思っているのですが、とすれば陰陽頭 というのは、いわば東大の学長。 泰親の正四位上なんてのは相当異例で、文部省次官くらいまで出世した感じ ですね。 という感じで見ると、学問の道で右大臣まで行った、吉備真備・菅原道真と いうのはもう異例中の異例中の異例という気もします。 晴明の父の安倍益材は大膳大夫(大膳職の長官)であったといいますが、こ れは五位の役職ですね。一応安倍家は天皇の子孫ですから出世すれば大夫ま ではいけたのでしょうか。まぁ基本的に上位の役職は藤原家が独占している から、他の一族はこの程度の中級役人に留まるのがせい一杯だったのかも。 晴明も最初は大膳職にいたようですが、どこかの時点で熊野で修行して色々 な術を身につけたようですね。「続古事談」で晴明と光栄を比較して、晴明 は術に優れ光栄は理論に優れていたと言っていますので、思う所あって行者 になっていたのを、忠行が見いだしたのかも知れません。

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