占星術ははじめ、色々な天体現象の意味を考えるところから自然発生的に生まれました。
夜空を見ていると実に様々な天体現象が起きます。
流れ星 | 小さな流れ星は気になりませんが、異常に長時間流れる流れ星や、一夜でたくさんの流れ星が観察される『流星群』などを見ると人々は不安になりました。 |
日食・月食 | 太陽が隠れてしまう日食、月が隠れる月食は、場合によっては大パニックを起こしたでしょう。 |
彗星 | ハレー彗星のように尾が長い彗星がやってきますと、そんなものを見たことのない人は、もうどう考えてよいか分からなかったに違いありません。 |
新星 | 夜空に突然明るく輝き出す星『新星』。多くは数ヶ月程度で少しずつ暗くなっていってしまいますが、権力者などには自分の強力なライバルがどこかで生まれたのではないかと疑心暗鬼に思えたことでしょう。 |
周期といえば、もっと明確な周期があるのが月の満ち欠けの周期、そして太陽の高度の変化とそれにともなう季節の変化の周期です。メソポタミアではチグリス・ユーフラテス、エジプトではナイルという巨大な川があり、この川が増水する時期がこの太陽の高度の変化と連動することも比較的早くから知られていたものと思われます。BC1700年頃のハムラビ王の時代の記録には、新月や満月、上弦や下弦にお祭りをする習慣が記録されており、新月→上弦、上弦→満月、満月→下弦、下弦→新月はだいたい7日間ですので、この習慣を見た近隣の天文知識の無い人々が単純に7日単位でお祭りをするようになったのが「週」の起源であるとも言われています。
天体の動きに周期性があることに気付いた神官たちが次に興味を持ったのは、星空の中でどうにも奇妙な動きをする5つの星のことだったでしょう。それは水星・金星・火星・木星・土星という明るい5つの星で、この5つだけが他の星とは違う不規則な動き方をするように思えました。しかしその一見不規則な運動に見えるそれらの星の動きも、きちんと計算すれば動きが予測できることに気付いた人たちもいます。記録に残っている中でおそらく最も古いのは、BC400年頃に、ギリシャのエウドクソスという人が、この5つの「惑星」の動きを計算する方法を発見しています。
占星術が初期の、各種の天文現象を占うものから、現代のように、人が生まれた時の惑星の位置により人の運命を占うものとなってきたのも、だいたいこの頃からと言われます。BC334年にアレクサンダー大王の東征が始まり、これによって発生したひじょうに広域の文化の交流が『ヘレニズム文化』を生み出すわけですが、このヘレニズム文化の中で、黄道十二宮という考え方が生まれ、ホロスコープが書かれるようになったと考えられています。BC205年5月には双子座への惑星集中現象が起きていますが、これが起きることはその数年前から当時の占星術師たちの間では知られており、かなり騒然としていたようです。中には「これは人類滅亡の時だ」と騒いだ人もあったようです。いつの時代にもこういう悲観的な考え方をする人たちはいます。
BC130年頃にでたヒッパルコスはそれまでに各地にあった占星術の文献を広く研究し、それを集大成する仕事をしています。彼こそが占星術の祖ともいえる人でしょう。更にはAD150年になりますと有名なプトレマイオスが「テトラビブロス」という占星術の本を著しています。この本は現代の占星術師たちも熱心な人は読むほどの名著になっています。
比較的何でも受け入れてしまう日本と違ってヨーロッパの場合はこの時期キリスト教教会の力が強かったことから占星術の研究はしばしば異端とみなされ、弾圧的なことも行われているようです。教会にしてみれば天の星々に、キリスト教が追放したはずのギリシャやローマの神々の名前が付けられていること自体、かなり気にくわないことでした。特に12世紀頃まではヨーロッパでは占星術というのはあまり表だっておこなえるものでもなかったように思われます。
その中でどうしても占星術をしたい人たちは『Astrologyは呪術の類ではなく科学である』という言い方をし始めます。このあたりからひょっとすると、現代でも信奉者の多い「占星学の科学説」というのがでてきたのかも知れません。この考え方を強力に主張したのはグロステスト(1175?-1253), マグヌス(1193?-1280), それに有名な哲学者ロジャー・ベイコン(1214?-1294?)らでした。これによって一時的に占星術とキリスト教教会は一種の妥協をすることができました。しかしその妥協を完璧に打ち砕いたのがコペルニクスでした。
コペルニクス(1473-1543)は当時科学的な発達が遅れていたヨーロッパであまりにも素朴に信じられていた「太陽が地球の周りをまわっている」というのはあり得ないということを指摘しました。どう考えても地球が太陽のまわりを回っていると考えなければ不合理であることを科学的に示します。これに続いてティコ・ブラーエ(1546-1601)やヨハネス・ケプラー(1571-1630)らの研究により「地動説」は確定的となり、教会側はガリレオ(1564-1642)らを異端裁判に掛けたりするものの、ガリレオの次の世代のニュートン(1642-1727)あたりの時代になると、もう教会はその古い権威で科学的な事実を押し曲げることなどできなくなっていきます。(ちなみに教会がガリレオの名誉回復をやっと認めたのは1989年)
とにかくもブラーエ・ケプラー・ガリレオ・ニュートンらの尽力で正確な天体の運動の計算ができるようになったことから、占星術もやがて次の時代に進んでいくのです。
リリーが生まれたのはもうエリザベス1世の晩年で次のジェームズ1世およびその次のチャールズ1世は強権的な政治をしようとして国民の反感を買ったりしますが、もういったん解放された自由の意識は権力によって押さえつけることはできませんでした。1642年ピューリタン革命が起きて、国王は権力の座から追われ、クロムウェルの民主主義政権が成立します。リリーは若い頃から反国王派の活動に参加したりしていましたがリリーが占星術師としてもっとも盛んに活動したのもこのピューリタン革命から1660年の王政復古までの約20年弱の期間に当たっているのです。
リリーの代表作であるChristian Astrology(1647)では、惑星やサイン、ハウスやアスペクト、星の品位、などといった占星術の基本的な要素を簡潔に解説しており、現代の占星術を学ぼうとする人がそのまま入門書として使っても構わないようにきれいな形にまとめられています。彼を「ホラリーの創始者」と書いている日本の文献は随分多いですが、確かに彼はホラリーをよく使っていますが、別に彼がホラリーを考案したというわけではないと思われます。どちらかというと現代ではメインになっている出生占星術よりもホラリー占星術のほうが歴史が古いかも知れません。(「ホラリー」とはクライアントの生まれた時刻でホロスコープを書くのではなく、クライアントから占い師が相談を受けた時刻でホロスコープを書く手法。東洋にも同様の占いで「六壬(りくじん)」というものがある。これはクライアントが自分の誕生日を知らなくても使えるので、とても便利)
このリリーの時代にはこういった専門家がきちんとホロスコープを書いて占いをするような占星術と同時に、今でいえば雑誌の巻末などに載っているようなお手軽な「星占い」の類もかなり流行しています。人々は教会や保守的な人達が『教会を通さずに神託を得るとは言語道断』などと言うのは聞き流して、こういう手軽な占いに興じて行きました。
現代の占星術の基礎を作ったとされるのはアラン・レオ(William Frederick Allen, 1860-1917)です。リリーの時代からアランの時代に至るまでの最大の変化はなんといっても天王星(1781)と海王星(1846)の発見です。そして世はおりしも大きなオカルトブームが起きていた時代。アラン自身も19世紀最大のオカルティストともいえるブラヴァッキー(HPB,1831-1891)から強い影響を受けています。彼自身、著作の中で占星術上の概念をかなりオカルト的に解説したりしています。
アランはそれまでの占星術を再度彼の哲学にもとづいて再構築していますが、彼の最大の功績は Modern Astrology という雑誌を刊行したこと、また Astrological Logde of London の設立などといった、きちんとした占星術を広める活動に多大な貢献をしたことです。彼の著作がよくまとまっているため、現代でもアランの著作をまるごとコピーしたような占星術の本が多い、などと軽口を叩く人もいます。
「ハンブルグ・スクール」の設立者として知られるヴィッテ(Alfred Witte, 1878-1941)は有名な「ウラニアン天体」を提唱したほか「ハーフサム」についても深く研究しています。
イギリス占星術協会の設立者としても知られるアディー(John Addey, 1920-1982)は「ハーモニクス(調波)」を西洋占星術の強力な武器に育て上げました。
ジョーンズ(Marc Edmund Jones, 1888-1980)とルディア(Dane Rudhyar, 1895-1985)は黄道を通常の12分割ではなく360分割する「サビアン」の概念を導入しました。
こういった多数の武器によって、現在ではひとつのホロスコープを実に様々な手法で深い分析を行うことが可能になっています。
占星術の発達で20世紀に大きく変化したものがホロスコープの計算に関するものです。それまではホロスコープを作成するには分厚い天文暦をめくり、更にそこから色々な計算をして、星の位置を割り出す必要がありました。またそもそも天文暦を算出するのには高い計算能力を持った人の天才的な働きが必要でした。しかし第二次世界大戦後急速に発達したコンピュータはこの事情を大きく変えてしまいました。
日本でこの分野でおそらく最も先駆的な活動をしたのは、日本のロケットの父ともいうべき糸川英夫でしょう。糸川は日本のロケット開発の初期の段階で中心的な働きをしたものの、アメリカ政府に嫌われて圧力がかかりロケット開発事業から追放されてしまった人です。しかし彼はその後逆に自由な立場から積極的に一般の人への科学の啓蒙活動を行い、実に様々な分野で活躍しています。ストラディヴァリに迫るバイオリンを作ろうというプロジェクトに参加したり、脳波測定器の開発、海底石油タンクの提唱などほんとうにこの人は幅が広いのですが、占星術についても詳しい研究をしており「細密占星術」はベストセラーになっています。彼は1970年代からコンピュータによるホロスコープの作成を手がけていますが、当時のコンピュータはまだまだパワーの低いものでした。
1980年代になると個人で買える「パソコン」が市場に登場し、これを利用して自分でホロスコープの作成ソフトを作るのに取り組む人たちも現れてきます。しかしさすがにこういうものが形としてまとまるには10年程度の歳月が必要です。その中でプロユースに耐えるだけの機能と精度を持ち、しっかりと作り込まれたソフトとして評価を得てきたのは小曽根秋男のStargazerと岡庭加奈のMiiboatのふたつだけでしょう。実際にこれから占星術を学びたいと思われる方は、この2つの内のどちらか或いは、英語圏で広く使用されているAstrologを自分のパソコンにインストールして利用なさることをお勧めします。