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↑ 通信昔話1988-1999


  私が初めてパソコン通信をしたのは1988年頃だったように思う。当時入っ
  たのはマスターネットで、ちょうどパソコン通信のシステムを作る仕事が
  入っていたため、どのようなものが実体験してみたものであった。
  
  最初の頃、圧縮ソフトや通信プロトコルの話がチンプンカンプンであった。
  まずエラーフリーの通信手順をひとつも持っていなかったので、エラーが
  起きないことを祈りながら、X-MODEMをダウンロード。
  
  このあと、当時2種類の圧縮ソフトがあって、移行期であったように思う。
  ファイルが圧縮されているということは理解できたが、その解凍ツールも
  圧縮されている訳で、どうすればいいか分からなかった。その関連の会議
  室のログを大量にプリントして、2日がかりで読んで、やっと自己解凍形式
  のデータがあることが分かり、それをダウンロード。ここまでたどりつく
  のに、始めてから一週間かかっていた。
  
  この環境で最初にダウンロードしたフリーウェアは NEKO2 である。
  
  これはこの頃に通信を始めた人なら大抵使ってみた可愛いユーティリティ
  で、画面上に猫が現れて、マウス(鼠 ^^;)カーソルを追いかけるという、
  それだけのものであった。私がダウンロードしたものは、オリジナル版か
  ら強化されており、猫の数が増えるようになっていた。
  
  初めて接続した時は、とにかく操作の方法がほんとによく分からず、戸惑
  うことが多かった。はっと気づいた時、1時間ほど通信していた。私は
  慌てて電話を切り、長時間使ってしまったことを上司にわびた。
  
  12年たった今、私は1日に4〜5時間は回線をつないでいる。

(2000-02-15)
 マスターネットの体験を元にパソコン通信のシステムを構築。それから4  年後、今度は私はMacintosh上の通信ソフトを作っていました。    その時組み上げた通信ソフトの動作テストをするのに、どこかのホストに  つないでみようと思ったのですが、マスターネットは特殊なインターフェ  イス。草の根ネットなどにお邪魔しても良かったのですが、まだ動作が  不安定でしたので、迷惑を掛けてはと思い、結局 NIFTY につないでみる  ことにしました。    パソコンショップでイントロパックを買ってきて、説明書を読みながら、  ログイン手順を自分の通信ソフトに組み込んで行きます。それは拍子抜け  するほど簡単につながってしまいました。    耐久性テストを兼ねてあちこち歩いて回っている内に、Mac関係の情報を  取り扱っているフォーラムがあることを知り、魅せられてしまいます。    そして1ヶ月後には、Mac関連の当時確か3フォーラムくらいのログを全部  読み、自分で分かる質問があったら、回答を書いてあげる、という生活に  なっていました。この時期、毎日2時間くらいこういうことに時間をつぎ  込んでいました。  しかしやがて、Mac関連のフォーラムがひとつ増えるようなことがあり、  その辺りで、私はこういう生活に限界を感じ、パタっと通信をやめてしま  います。それ以上フォーラムが増えることは私の割ける時間の限界を超え  るものでした。    そして本来のMac用通信ソフトの開発に全力を集中し、約2ヶ月でそれを  組み上げました。マクロをビジュアルに編集したりできる機能などもあり  自分なりにかなり納得のいく仕上がりでした。    そしてひと息ついた時、私は何気なくまたNIFTYに接続してみます。    するとそこにメールが2通届いていました。 (2000-02-16)
 メールの一通は中村明さんからでした。しかし当時私は「中村」も「明」  もすごくありふれた名前であるため、この人が実在の人物とは思ってもみ  ませんでした。    (当時中村明さんはマジで毎日100通以上のメールに返事を書いていたら  しい。常務の仕事をこなしながらそれは、すごい。)    もう一通は、とあるフォーラムのSYSOPからのもので、今考えると、いわ  ゆる「ごぶさたメール」だったようです。そういえばそんな所にも行った  っけ、と少し記憶が蘇りました。2月ほど行っていなかったため、送られ  てきたものなのでしょう。    私はこのメールに反応し、またそのフォーラムに行ってみました。2ヶ月  前に行った時は会議室の読み方とかが分からなくて、結局何も見ずに出て  きていたのですが、今度はさんざんMac関係のフォーラムで書き込みをやっ  た後なので、全然操作は問題ありません。ログを斜め読みしてみて、何だ  か面白いフォーラムだな、と思いました。    しかしその時はまさか半年後にそこのフォーラムのサブシスをやることに  なるとは、思いもよりませんでした。 (2000-02-17)
そのフォーラムに入って間もない頃、新しい会議室2つの室長が公募にな ったのですが、ちょっと室長というのにも興味がありました。しかしNIFTY をはじめて間もない身で、なかなか立候補する勇気がありませんでした。 ところがここにちょっとした事件が起きます。ひとりの人が立候補のメー ルをSYSOP宛に送るべきところを、どこでどう間違ったのか私に送って来た のです。 私はそのメールをSYSOPさんに回送するとともに、ほとんどついでのように 彼が立候補したのと別の方の会議室の室長を「やりましょうか?」と書き 添えました。 そして、他には立候補者が無かったようで、結局その会議室のスタッフを することになったのです。 そしてスタッフになってから数ヶ月後、突然SYSOPさんが辞任してしまいま す。そして新しいSYSOPさんから私に「自分はコンピュータのことがよくわ からないので、ライブラリのチェック担当のSubSysOpをしてほしい」との 要請があったのでした。  それで、まぁライブラリのチェックくらいなら、と引き受けたら、それが  それだけでは済まない状況になってしまいます。いつしか私はフォーラム  運営にも関わらざるを得ない状況になっていきました。 (2000-02-19)
 会議室の室長になったころまでは、そんなでも無かったのですがサブシス  になって数日で私は大きな認識の転換を迫られます。それは「もう自分に  とって通信を楽しむ時代は終わってしまった」ということでした。それく  らいサブシスとふつうのスタッフとの立場の差は大きかったです。  しかしその後フォーラム管理者になってみると、フォーラム管理者とサブ  シスの間の立場の差というのは、向こうが全然見えないくらい遠い、とい  うことを認識することになります。サブシスの頃までは「自分の意見」を  書くことができたのですが、フォーラム管理者にはそれは一切許されない  ことでした。談話室にチラっと書いたようなことでも「フォーラムの公式  見解」とみなされてしまう訳です。  私はひたすら調整役兼営業担当という感じの日々を送ります。  しかしちょうどその時期、私は会社ではあまり通信時間のとれない、自由  の利かない業務をしていたので、これはある意味で好都合であったともい  えます。どちらかというとこの時期の私は大量に電話を掛け、大量に手紙  を書いていました。  しかしそれだけで過ごす時間というのはそんなに長く続きませんでした。  その年の秋、突然ニフティからこんな通達があったのです。    「今度ニフティのWWWサーバーを立ち上げるので、各フォーラムのホー  ムページを作ってほしい」 (2000-02-20)
Niftyから「ホームページを作ってくれ」と言われた時、私はインターネ ットというのが何なのか、さっぱり分かっていませんでした。 雑誌などでしばしばインターネットの特集が行われており、WWWとか GOPHERとかFTPとかNetNewsとかが紹介されていたのです が、いくら読んでもチンプンカンプン。この話が来てから再度読み直した のですが、それでもさっぱり分かりません。 ただniftyからのアナウンスでは「HTMLを作る」ということを言われたの で、とにかく、どんな形式のデータか分からないが、それを作れば何とか なるのであろう、と考えました。 最初は何か特殊なデータなのだろうから、それを作るソフトか何かがある はずだと思って探していたところ、やがて、どうもHTMLというのは、テキ ストファイルらしい、ということを知ります。 そしてちょうど、おあつらえ向きに、会社にその頃届いたばかりの雑誌に 「これがHTMLだ」という特集が組まれているのを見ました。 私はその雑誌に添付された「タグ一覧」と「サンプル」を見比べながら、 HTMLというものの中身を少しずつひもといていきました。そしてこれなら 何とか書けるかも知れない、と思えた時には、既にアナウンスから3週間 ほどが過ぎていました。〆切はもう半月後です。 当時私の手元にあったのは、MacintoshIIcx(68030)と PC98note(386SL, 白黒液晶)のみ。そして、雑誌に付いていた、Netscape Navigator 1.0の 体験版でした。 マック上のDirectorで妻に絵を描いてもらい、それを後でPhotoshopでGIF に変換します。一方私は 98noteでHTMLをひたすら入力しました。それを ある程度のところでマック上のフォルダに集めて、Netscapeで表示状態を 確認します。 〆切前の最後の3日くらいは妻にも徹夜で絵を描いてもらいました。そし て、〆切当日全てのデータを LHa で圧縮し、NIFTYに送ったら..... NIFTYから「あまりに集まりが悪いので〆切を一週間のばします」との アナウンスが。。。。 私はドッと疲れたのでした。 (2000-02-21)
 NIFTYのホームページは1995年12月22日の21時12分頃に公開されました。    私は今後ホームページの管理をしていくために、今自分が持っている設備  では力不足であると考えました。そこで妻とも相談の上、大決断して、  新しいパソコンを1台買うことにします。Macintoshも考えたのですが、  とりあえず古いMacintoshはあるから、ということでWindowsが動くマシン  が無いから、Windowsマシンを買おうということにしました。    その時買ったのが現在もまだメインマシンとして使用しているEpsonの  VN575ST です。Pentium 75MHz 800x600 TFT液晶 750MB-HD。価格は29万円。  当時結婚してからそんなにたってない時期で、生活はかなり苦しかったの  ですが、妻が絶対必要だと主張してくれたので、買う決心が付きました。    メモリーは当初標準の8MBで動かしていたのですが、直後にWindows上での  ソフト開発の仕事が入り、コンパイラを動かすため、16MBのDIMMを入れて  24MBにしました。当時この16MBのDIMMが9万円して、コンパイラの価格4万  円と合わせて、これも痛い出費でした。    (現在は32Mと交換して40MB。32MBのDIMMは2年後に買ったものでこの時は  2万円でした.ほんとは64MBを入れたかったのですが、あちこちの店を探し  回っても適合するDIMMを見つけられませんでした。パソコンの部品は時間  がたつと難しい) それとともに、自分が作ったホームページを見れないというのも間抜けな ので、プロバイダと契約しました。当時雑誌記事などで好印象を持ってい たベッコアメで、当時は年間契約しかありませんでした。この加入料も まぁ結構痛い出費でした。(当時はまだniftyからPPPできなかった)  しかし、プロバイダに入って、Netscapeも体験版から製品版1.2にあげて  実際にインターネットの海に乗り出してみると、今まで文章で読んでも  さっぱり理解できずにいた、いろろいなものが理解できていきます。  インターネットというのは、ほんとに文字では説明しづらいものなんだと  いうことを私は認識しました。    インターネットは自分で体験する以外に理解する方法は無いと思います。  あるいは従来の言葉で説明不可能な新しい仕組みだということなのかも  知れません。  NIFTYのホームページは12月22日に公開されて、次の更新は1ヶ月後の1月  22日になりました。その後2月からは、平日の朝までにデータをNIFTYに  送信すると、その日の午後までに反映されるという運用ルールに変わりま  したが、それでも不自由なので、せっかくプロバイダに入ったことでも  あり、フォーラム別館という形で、ベッコアメにサイトを立ち上げること  にしました。こちらは一日のいつでも自由に更新ができるので、新鮮な  情報の提供というのを目標にしました。    しかしその内、フォーラムに書くには、ちょっとしょうもないかな、とか  この話はフォーラムのテーマと無関係だよな、という記事を、このスペー  スを借りて、書き出しまして。。。。    そのうち、そちらの比率の方が大きくなってしまいました(^^;; (2000-02-22)
 うちのフォーラムのホームページは最初ベッコアメに「ベッコウ」だから  というので「別館」を作り、ついでCGIが使えるサーバーを求めて、  リムネットを借り、「リム」だからというので「リムランド」(辺境の意)  を作りました。    その後リムネットはsendmailが使えないので 3webに引っ越し。またニフ  ティのサイトが自由に更新できるようになったのを機会にベッコアメは  98年に引き払って、公式サイトに合併しました。  その後、ニフティの方から今後はインターネットが中心になっていくから  という話があったので、では本格的なレンタルサーバーも確保しておいた  方がいいかというので、またまたベッコアメに1サイト借ります。これが  現在の ffortune.net。ここにはまたかつての別館のようなものを構築し  ていこうとしています。    しかしさすがにこの手のサーバーはバックボーンが細いため、そのミラー  サイトをニフティの一般会員用のホームページの中に確保して、現在に至  っています。 ベッコアメにかつて作っていた別館を公式サイトに統合した時は多くの人 から惜しむ声がありました。実はこの統合の際、かなりのデータをカット しています。 というのは、やはりフォーラムの公式ページに書ける内容は基本的に不偏 不党の、できるだけ公正な文章でなければなりません。しかしそれだけで はやはり面白くないので、個人的な意見や仮説的なものを別館の方に書い ていたのです。 ということで、今再構築中の「新別館」(next annex ということでanex) はかなり個人色の強いものにしてあり、そのため、公式サイトから別館 へのリンクは目立つところには張っていません。 (2000-02-23)
チャットというのは、しだすと時を忘れるものです。そろそろ落ちようと 思っていたころに誰かくると、ついつい落ちそびれたりして、また長居し てしまいます。  そこで、何分間かたったら、警告してくれる、チャット用付加ソフトなる  ものがあります。    昔、私がそういうもののひとつを使っていた時、チャットの最中に突然  切られてしまったことがあります。  最初何が起きたのか分からなかったのですが、とりあえず再接続して、ま  た同じところに行ってみると、まだ何人か残っていました。「すみません。  なんだか急に落ちちゃって」と言うと「なんだか、時間で〜す、とか表示  されたよ」との話。    どうも、このソフトは一定時間たったら、警告とかではなく、有無をいわ  さず切断してしまう、厳格?なソフトだったようでした。 (2000-02-25)
今はテレホーダイと定額制料金の普及で通信の単価もほんとに安くなった のですが、1992年頃はけっこうな費用がかかっていました。当時NIFTYの ROAD1/ROAD2 が1分間10円。月に50時間使うと通信代3万円に電話代1万円 かかりました。むろんヘビー・チャッターにはこの倍くらい払っていた人 もあります。 さて、その人は朝通信をしていて、出勤の時刻になったのにダウンロード が終わってくれませんでした。しかしダウンロードが終わってから何分間 か通信がなかったら、自動的に切断されるはず。そう思って彼はそのまま 放置して会社に出かけました。 昼休み、ふと気になって自宅に電話してみました。 話し中です(^^;; 3時頃もう一回電話してみました。 話し中です(^^;; 彼は5時半になったら急いで会社を飛び出し自宅に戻りました。そして 通信を切ったところ 『接続時間 11時間20分15秒/ありがとうございました』  などといった文字が表示されたとのことです。 (2000-02-26)
 「パソコン通信」の黎明期にはNIFTY(現@nifty)、PC-VAN(現Biglobe)が 二大ネットでしたが、両者のシステム拡張のアプローチはまるっきり逆で  した。    PC-VANは会員が増えて処理能力が要求されるようになるたびに、ホストマ  シン自体をどんどんバージョンアップしていきました。これに対してNIFTY  の場合は、ホストマシンの台数を増やしていきました。    当時のパソコン通信の人口というのは十万人程度。一部ではこれで頭打ち  になるであろうという意見もあったようです。そういう状況の中でPCVAN  のアプローチも間違ってはいなかったと思います。しかしやがて通信人口  が20万人、30万人と急速にのびてくると、PC-VANのアプローチは限界に達  してしまいます。1994年頃、10行程度のメールを出すのにNIFTYで出す場合  は接続してから1分以内で終わって10円で済んでいたのですがPC-VANでは  どうしても3分くらいかかっていました。  しかしNIFTYのアプローチにも盲点がありました。複数のホストで分散処  理しているため、混雑している場合、会員さんがログアウトしたのにその  情報がフォーラムのサーバーにたどりつかず、本人はいないのにチャット  の一覧に表示されたままになる、ということがしばしば起きました。  これはチャッターの間では「幽霊」と呼ばれ、金曜日の晩などには必ず  発生していました。むろん課金はされない訳ですが、放置すると次本人  がそこに来るまで残っているので、フォーラムスタッフに報告してもら  って、ひとつずつNIFTYのスタッフがデータをクリアしていました。この  現象は1995年から1996年にかけてニフティがサーバーを高速マシンに入れ  替えると、さすがにかなり減りました。 (2000-02-27)
 ニフティは現在はもちろん24時間営業、年中無休なのですが、最初の頃は  夜間は停止していました。夜遅く、ニフティが止まるまでチャットしよう  といって深夜RTC (Real Time Conference)に集まる人たちも多かった  ようです。    朝はニフティの社員が当番を決めていて、毎朝一番に出てきた社員がサー  バーのスイッチを入れるというシステムだったようです。人が出てきてか  ら入れるという、のんびりしたシステムなので、まれに当番の社員が遅刻  したりすると、本来の開業時刻より遅れてスタートすることもあったらし  いですが、特に抗議の電話などが入ることもなかったそうです。    当時は会員側ものんびりしていたので「あぁ寝坊したかな」くらいに思っ  て1時間くらい待ってから再挑戦、ということで済んでいたもよう。    古きよき時代だったというべきでしょう。    みんながその頃の気持ちでネットワークをしていれば、訴訟起こすぞとか  なんだといった話も無いのでしょうけど。。。    当時はニフティのホストというのは1台のマシンのみで。通信制御用の  FEPが分離されるのは開業してから半年後くらいになります。    マシン一台なので、オフィスにそのままおいてあり、これもまたまれに  誰かが電源コードにつまづいてダウンさせてしまうなんてこともあったら  しいですが、昔は通信が途中でブチ切れるのは珍しいことではないので、  これまた問い合わせの電話なども入ることはなかったそうです。    この時代のニフティは運用的にもスペック的にも会員数的にも雰囲気的に  も、ほとんど草の根ネットと同様だったようです。 (2000-02-28)
 1993年頃だったと思うのですが「絵理香事件」と呼ばれる悪質な事件が全  国で同時多発しました。  絵理香というのは有名なBigModelと当時は人気を分け合っていた、草の根  ネット用ホストプログラムの名前です。どちらかというと回線が1回線か  多くても2回線といった、ごく小規模の草の根ネットで多用されていたよ  うに思います。  この事件の犯人(一人か?捕まっていない)は全国の、絵理香を使用して  いる草の根ネットのホストに無断侵入。運営者を批判するメッセージや卑  猥なメッセージなどを大量に書いて回りました。  一度狙われると、管理者がどんなにがんばってメッセージを消去しても、  翌日また侵入して書き込みをする、という状況で、対策に疲れて、ホスト  局を閉じてしまう人(女性が多かった、というか、そもそも絵理香の使用  者は女性が多かったもよう)もかなりありました。  絵理香局だけが狙われたことから、犯人は絵理香の中身にかなり詳しい  人間ではないかと噂されたのですが、結局わからずじまい。もし当時警察  が真剣にこの犯人を追跡してくれていたら、いまどき官公庁のホームペー  ジが書き換えられました、なんて話は無かったかもしれません。  当時は警察にもこの方面に強いスタッフは非常に少なかったであろうと思  われます。 (2000-02-29)
 1994年頃だったでしょうか。いろいろあって精神的に疲れていた私はNIFTY  は職務上離れるわけにはいきませんが、友人から誘われて松下電器系の  silk net というところに入り浸っていました。    silk net は NIFTYライクなコマンド体系になっており、NIFTYユーザーに  はひじょうに使いやすい存在でした。またニフティが未読を「どこどこま  で読んだ」という形で管理しているのに対して、silk net はひとつずつの  発言について読んだ/読まないを管理しており、読み漏れというのが発生  しにくい構造でした。    また、コーナーを持ちたいという人が立候補して、3人以上賛同者が出ると  設立してもらえる、という、これまた古き良き時代の運営が成り立っていま  した。(NIFTYも初期の頃は「SYSOPやりたい」と言えば即フォーラムを作っ  てもらえのですが、一時期ひじょうに品質の悪いSYSOPが続出して、面接を  するように変わりました)  また当時silk net には確か500円くらいの会費で毎月の新刊情報がとれる  サービスが行われていました。同様のサービスは後にほかのネットでも動  き出しますが、私はこのサービスだけでもsilk netに入っていることの価  値を感じていました。    当時silk net には信じがたいことにsilk net に現在ログイン中のユーザー  をすべて表示する、などというコマンドがありました。    しかしいつこのコマンドを実行しても、表示されるのは5〜6人以内でし  た。まぁ、それほど閑散としていたので、こんなコマンドがあったのかも  知れません。 (2000-03-01)


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