Apple Story

↑

ガレージで生まれたApple I

1974年。インテルがi8080を発売した年。MITS社のエド・ロバートはこれ を元にしたパソコン組み立てキット ALTAIR(アルテア) を発売した。これ に魅せられたPaul AllenとWilliam Gates Jr. はALTAIR上で動くBASICを 作成。このソフトの権利を MITSに売却して得た代金が、彼らのMicrosoft の資本金となる。
Bill GatesらがALTAIRのBASICを作ったのが1975年の5月である。その頃 Stephan Wozniakもパソコンクラブに出入りしていて、ALTAIRに魅せられ た。
ALTAIRは4200ドル(約13万円)である。当時のコンピュータというのはだい たい数千万円していたわけで、HPのプログラム電卓でも数十万円していた ので、これはとんでもなく安いマシンだったのだが、それでも、当時の ウォズには、この13万円のALTAIRは買うのにためらう値段だった。
もし、当時ウォズがお金持ちだったら、Appleという会社は生まれていない のである。先日インテルの歴史をたどった時にも、インテルにお金がなか ったから i4004 は生まれたというのを語った。貧乏はしばしば世の中を 発展させる。
コンピュータが欲しいけど自分には買えない。悩んでいたウォズは夏ごろ たまたま通りかかって入ったビジネスショーで Moss Technology社の6502 という CPU が特価20ドル(約6千円)で売られているのを見る。
「これなら買える!!」うれしくなったウォズはその場で1個売ってくれと いうのであるが、たまたまその場には責任者がいなくて売れないという。
結局、近くのホテルにMoss Technologyの社長夫人がいたため、そこまで 押し掛けて、この格安のCPUを売ってもらった。
そして、彼はこのCPUに自分でキーボードその他を付加し、パソコンを1台 組み立ててしまうのである。
ウォズの高校時代の友人であったSteven P. Jobsは、このマシンを見て 「これは売れる」と確信した。そこで彼はこれを事業として興すことを 提案。当時ウォズはHewlett Packardに勤めていたので、同社にこの製造 計画を打診し、資金を出してくれるよう交渉した。
しかしHewlett Packardはそれを断る。ウォズは会社を辞めて、同社製の 電卓(当時の電卓は十分高価である)を売って、製造資金を作った。しかし それだけでは足りないので、ジョブスが更に自分の車を売って資金の足し にした。
こうして1976年4月1日に Apple Computerが誕生し、5月には50台もの受注 を受けるに至った。Apple I と後に呼ばれるこのマシンは価格666.66ドル (約20万円)であった。この価格について最初ジョブスはラッキーナンバー の7を使って$777.77にしようと言ったが、ウォズはそれでは高すぎると 主張し、1引いて$666.66になったものである。

当時このApple I の製造工場は、ジョブスのお父さんのガレージであった。
DECのミニコンもAppleのパソコンも、アメリカの革新的マシンはガレージ から生まれたのである。

マークラの資金提供で生まれたApple II

Apple 1 はまさにボードコンピュータという感じで、木箱の中に基板と16 進の小型キーボードが納められ、ディスプレイやタイプライタ型キーボー ドは欲しければ自分で勝手につないで使ってね、という思想で作られていた。
Apple I が基本的にパソコンの工作が趣味の人向けに作られたものであっ たのに対して、ジョブスはこの機械を、もっと一般の人にも使えるものに したいと考えた。
そこで企画されたのが Apple II であるが、そのためには二人だけの資金 ではとても足りなかった。
ジョブスはApple を始める前に勤めていたAtariの元上司Nolan Bushnell に資金提供を打診した。Bushnellは Don Valentineを紹介した。Valentine は Mike Markkula を紹介した。そして Markkula が資金提供を承諾。ここ で Apple は株式会社に改組され、Mike Markula 会長、Steven Jobs副会長、 Michael Scott社長、Stephan Wozniak副社長となった。Apple I の開発に 携わった「3人目の創業者」Ron Wayne はこの時点で会社を去った。

Mike MarkkulaはIntelの株公開で得た大量の資金をこの会社につぎ込んだ。
Markkulaが出資する前のAppleの資本金は9.2万ドルであるが、Markkulaは ここに25万ドルも出資したのである。彼はAppleの約7割の株式を所有する ことになった。そのため彼はこの会社は「自分の会社だ」という意識が強 く、この後Appleに訪れる「次々と社長が交替する」という悲劇はMarkkula の意志によるものと言われる。

 Apple I がいかにも手作りという雰囲気であったのに対して、Apple IIは  プラスチックのボディに全てが納められており、タイプライタ型のキーボ  ードは最初から据え付け。そして家庭用テレビに出力する端子が付いてい  た。すなわち、これを買えば、機械に強くない、普通の人でもそのまま  パソコンの環境を得ることができたのである。

 ほんとに普通の人でも利用できるコンピュータというのはここに始まった  わけで、この Apple II の誕生をもって「パソコンの誕生」と言う人も  多くある。

 ただしさすがにこれだけ強化しただけあって、Apple II は Apple I の倍  の$1295(約39万円)した。

 Apple II のプロトタイプは1976年秋に公開され、1977年4月に発表。6月  から出荷が開始された。初年度の売上高は77万ドル(約2億円)である。
 このマシンは現在でもまだがんばって使っている人がいる。進歩の速い  この業界で、ひとつのマシンが20年以上使われているというのも驚異的で  あり、またこのマシンが名機であったことを示している。

誰でも使えるパソコンを

Apple I, Apple II, Apple III という一連のシリーズはStephan Wozniak の主導で作られたものですが、Stevent Jobsの方は「その次」を考えてい ました。
発端はゲーム専用機の開発プロジェクトでした。Apple II plus が発売さ れた年1979年、社内では500ドル(約11万円)程度のゲーム専用機を作ろうと いう企画が持ち上がりました。
ところがこれに反対したのが Jef Raskin です。彼はそんなものを作るよ り、コンピュータに詳しくないごく一般の人(People in the Street)が使 えるマシンを作りたいと主張しました。Raskinは彼が考える「誰でも使え るマシン」(PITS)の概要仕様を提出。この意見は認められて「Lisa」の プロジェクトがKen Rothmullerのもと動き出しました。当時このマシンは 2年後、1981年頃の発売を目標にしていたようです。
その年の春、ジョブスは偶然 XEROXのPalo Alto 研究所(PARC)を訪ね、 Alan Kayらが開発した「次世代コンピュータ」ALTOと、その上で動作する Smalltalkを目にしました。(11月という情報もあったが、それではJobsが Metcalfeに会えなかったはずなので、春頃と思われる) その凄さにショックを覚えた彼はすぐにBill Atkinson, John Couchらを 連れて、再度 PARCを訪問。彼ら技術陣に ALTOを見せました。(Raskin や Rothmullerも当然そこにいたと思うが未確認) ジョブスはこのALTOの持つビジュアルなインターフェイスをぜひLisaに乗 せようと主張します。これに対して Rothmullerは無理だと主張したため、 ジョブスは Rothmullerを解任。Couchを後任に任命しました。更にはXEROX の技術者を15人引き抜き、このプロジェクトに投入します。
しかしこのプロジェクトは困難を極めました。なかなか進捗しないソフト 開発。費用だけどんどん掛かっていき、Apple II の利益を食いつぶしてい ました。社内に不満があふれてくる中、経営責任者である社長のマイク・ スコットは1980年末、このプロジェクトの総責任者であるジョブスを解任 します。
解任されたジョブスが回ったのは「Macintosh」のプロジェクトでした。彼 は自分の娘(1978年生)の名前を付けた「Lisa」のプロジェクトから外された 悔しさをこの「Macintosh」にぶつけました。その後の話は明日。
そして結局Lisaの発売は1983年1月19日になります。予定を2年もオーバー していました。しかも9998ドル(約240万円)という高値が災いして、惨憺た る営業成績になります。
しかもLisaがもたもたしている間に、本家のXEROXがALTOの後継機Starを 16595ドル(約400万円)で発売、また大本命の IBM が Apple IIIをかなり 意識した同社初のパソコン IBM-PC($1565=36万円)を1981年に発売して いました。
Appleは存亡の危機にさらされていました。

スカリーとマッキントッシュ

Appleの経営悪化の現状を改善するには、やはり経営のプロをスカウトして くるしかない、とジョブスは考えました。そして白羽の矢を立てたのが ペプシコーラの副社長 John Sculley でした。
熱心にスカリーを口説くジョブス。「君はずっと砂糖水を売っているのか い?ぼくらと一緒に世界を変えることに挑戦したいとは思わないか?」と いう言葉もあったと伝えられています。
そしてとうとう1983年4月8日、スカリーはAppleの経営者として迎えられま した。大企業の重役としての安定した椅子を捨て、海のものとも山のもの とも知れぬ、しかも今にも倒産するのではないかという会社にやってきま した。ジョブスはスカリーに心酔しており、彼の全ての行動から経営者の あり方を学び取ろうとしました。
スカリーは社内の状況を把握した上、Lisaのプロジェクトの中止を決断。
ジョブスが進めていた、Lisaの次世代のコンピュータであるMacintoshの プロジェクトに統合します。
Macintoshのプロジェクトは社運を賭けて開発していたLisaとは違い、そ れまでわずか7人程度のチームで開発が進められていました。しかしLisa から外された悔しさからジョブスはここに自分の全てをつぎ込みます。彼 はこれをXEROXのAlan Kayが語ってくれた「Dynabook」にするんだという 気持ちで作っていました。彼は Maintosh, Macintosh II, Macintosh III というステップを設定。2000年頃に Macintosh III を出し、それはDyna bookそのものにしたいと考えていました。Sculleyはこの徹底した理想主義 で作られたマシンにAppleの将来を見たのです。
Macintoshは技術面ではLisaで開発された色々なものが投入されていまし たが、思想的にはLisaとかなり違ったものでした。
Lisaが全てのソフトを自社開発しようとしたのに対し、MacintoshはIBMの PCと同様に、その全ての仕様を公開し、ソフト開発をサードパーティーに ゆだねる方針を取りました。その代わり、ソフト開発の詳細なガイドブック であるInside Macintoshが公開され、そのInside Macintoshの思想に忠実に 従ってBill Atkinsonが作った名作ソフト Mac Paint が添付されていました。
Mac Paintはその後全てのマック用ソフトのお手本になります。

 Macintoshは1984年1月24日に発売されました。
 
 ただしMaintoshの開発スタッフは実は出荷する24日の朝までOSのバグ取り  をしていたといいます。23日の深夜原因不明のバグでシステムが落ちまく  り、プロジェクトの面々が半分青ざめながら必死でバグの箇所を追い掛け  ていました。
 
 IBM-PCをハンマーで叩き割って、そこに代わりにMacintoshを置くという  大胆なCMまですでに流しています。今更発売延期はできません。スカリー  も祈るような気持ちで成り行きを見守っていました。

 ところが24日未明、ウソのように全てがうまく動作するようになったので  す。なぜうまく動いたかは分かりませんでしたが、急ぎソフトを出荷用の  フロッピーにコピーし始め、なんとか本体の出荷にギリギリで間に合わせ  ることができました。
 
 Macintoshは2495ドル(約60万円)。価格はかなり割高感があったものの、  このマシンは1年間で約50万台売れます。価格も安く、すでに数百万台売れ  ているIBM-PCには遠く及びませんでしたが、Appleは一矢報いることができ  ました。
 
 こうしてAppleはパソコン市場に生き残ることができたのです。

創業者が退任!!

1985年。この年はAppleにとって実に不幸な年でした。何が起きたかという 結論はみな知っていますが、どうしてそうなってしまったのかという経緯 については論者ごとにどうも食い違っており、何を信じたらいいのか分か りません。下記はその一説とお考えください。
まず春先くらいのことのようですが、不幸はひとつの事故から始まりまし た。
特価20ドルの6502を買ったとき以来、Apple I, II, IIIのシリーズの開発 で中心的役割を担ってきた、Appleの創業者のひとり Stephan Wozniakが 飛行機事故にあったのです。
幸いウォズは命に別状はなく、怪我だけで済みましたが、深刻な記憶障害 に陥ります。事故以前のことははっきり記憶しているのですが、事故以降 の記憶が全てあいまいで、ちょっと前にしたことを思い出すことができな かったといいます。ウォズのそういう状態は5週間ほども続き、彼はこの 事故を契機に、あまり会社に出てこなくなってしまいました。
そしてその会社にあまり出てこなくなったウォズと、必死でMacintoshの 拡販を図るSculleyの間に、深刻な対立が芽生えてきつつありました。
ウォズは自分が手塩にかけて育てて来た Apple シリーズを更に推進して いくことを願っており、Apple III の開発に会社の重心を置くべきだと 考えていました。しかしスカリーから見ると Apple III は IBM-PC と なんら特徴的な差異がなく、それよりも明らかに仕様的に上に立つMacin toshこそ会社の中心に置くべきだと考えていました。
両者の対立が深刻になっていく中、Steven Jobsは自分の師と友人と、 どちらかを選ぶとしたら、やはりウォズを選ぶしかないと決断します。
ちょうどスカリーが中国に出張するスケジュールが入っていた時、抜き 打ちで役員会を開き、スカリーを解任しようとしたのです。
しかしこの電撃解任の計画が直前にスカリーに漏れてしまいました。
スカリーは急遽中国出張を取りやめ、役員会に出席します。スカリーと ジョブスの激論が行われ、多数決が取られた結果、もうひとりの創業者 であるマイク・マークラをはじめ、ほとんどの役員がスカリーの意見に 分があるとしてそちらを支持。ジョブスはAppleを去りました。

 それと同時に、この会社に自分の将来は無いことを悟ったウォズも一緒  に会社を辞めます。

 ジョブスはその後NeXT社を設立します。その話は次回に。一方のウォズ  は消息不明になってしまいます。一説によると、どこかの田舎で高校の  先生になったとも伝えられましたが、誰もそれを追い掛けて確認しよう  とはしませんでした。その時誰もがウォズの時代は終わったと思ったの  かも知れません。

売れなかったNeXT

Steven JobsがAppleをやめた時、彼の手元には Appleマークを削り取った マッキントッシュが数台あったといいます。
彼はそれを見ながら、再起の道を図りました。
彼が考えていたのは、彼の頭の中にある Macintosh II であったのでしょ う。スカリーはジョブスに「君がAppleで開発したソフトをApple外で使用 した場合著作権上の問題がある」と釘を刺していました。そこでジョブス はUNIXをベースに考えることにしました。
カーネギーメロン大学で開発された「次世代のUNIX」とされる Machに ジョブスは興味を持ちました。そしてMacintoshでプリンタのインターフ ェイスとして採用したものの画面のインターフェイスとしては見送った Post Scriptを前面に押し出しました。
更には当時まだどこも採用していなかった CD-ROMを搭載し、代わりに フロッピーは搭載しないという大胆なマシンを設計しました。そしてマ ックやIBM-PCの白いボディに対して、黒い立方体状の未来的なボディを 設計しました。
このマシンの開発には3年の歳月が費やされ、1988年10月12日、新世代の コンピュータ NeXT が発売されました。

 このマシンの先進性は多くの人に評価されます。しかし6500ドル(約100万  円)という価格が災いして、多くの人がこれを「ワークステーション」と  みなし、販売成績は伸び悩みました。
 
 やがてNeXTはマック同様のハードとソフトを同時に出していくという路線  を断念。1993年ハードの製造を諦めて、NeXTのOSをIBM-PCのインテル製  CPUでも動くようにして、NeXTはソフト会社になってしまいました。

 その間に Apple は 1987年に Macintosh II を発売して画面をカラー化し  また価格がかなり安くなってきたことから、どんどん売上げを伸ばしてい  ました。スカリーとジョブスという「師弟」の営業成績は明暗を分けてい  ました。

マッキントッシュ黄金期

MacintoshはSteven Jobsが生みだし、John Sculleyが育てたマシンです。

最初のマックはCPU 68000, 128KB-RAM 3.5inchのフロッピー1機を搭載。
モノクロの画面でした。しかしモノクロの画面というハンディを上回る 操作性の良さ、買ってきてスイッチを入れたらそのまま使えるという利便 性が支持され、特に医師や弁護士など、パソコンを「道具」として自分の 意志で使いこなしたい人に広まりました。
スカリーはMicrosoftのBill Gatesと交渉し、MicrosoftにMacintosh用の ソフトを開発してくれるよう依頼します。Gatesはこれに同意し、Macin tosh用の表計算ソフト、Excel を提供します。Excel+Macintoshの組み合 わせは Lotus1-2-3 + MSDOS を完璧に越えており、このExcelによって、 マックは更に利用者を増やしました。これはまたMicrosoftにとっても ひとつの活路と見えました。

Bill Gatesは、このすばらしいOSをマックのハードだけでなく、IBM-PCの ハードの上でも動くようにするよう勧めます。もしこのときスカリーが これに同意していたら、MS-Windowsの開発は中止され、両者共同で新世代 OSが開発され、2000年に全世界のコンピュータで動いているOSは Macin tosh OS になっていたかも知れません。

しかしスカリーは散々悩んだ末、この申し出を断ります。スピンドラーが 強硬に反対したためという説もありますが、この決断はスカリー在任中の 最大の判断ミスと指摘する人もいます。

なおこの時期Appleは一方ではMicrosoftを、WindowsでAppleの著作権を 侵害したとして裁判に訴えています。しかしGatesは大きな心でその裁判 を戦いながらもApple に協力を続けていました。万一Gatesがほんとに 怒って、Macintosh用のソフトは作らないと言い出したら、一番困るの はAppleだったはずで、この裁判はある意味でAppleという会社の経営戦略 の欠如を示していたともいえるでしょう。

しかしそれでもマックは売れ続け、1987年にはカラー画面をサポートする Macintosh II が発売。更に1990年には「スーパーコンピュータが机の上 にやってきた」と言われる、超高速マシン Macintosh II fx が発売され Apple は優れた先進性を持つメーカーであるとの評価を受けるようになり ました。
(fxは高いので売れてないが、このマシンは存在しているだけで意義があ った。またfxは将来UNIXやDOSマシンとの互換性を考えているのかな?と も思わせる特殊なフロッピードライブを採用していたがその後のマッキン トッシュのモデルでこのタイプのフロッピーは2度と使用されなかった)

 1988年頃から1992年頃というのがAppleが最も輝いた時代であったと思わ  れます。

スカリー退任で冬の時代へ

 Macintosh II fx は最高のマシンでしたが、逆に言うとマックの枠組みの  限界を感じさせるものがありました。Apple は Macintoshに使用している  モトローラのCPUの性能に限界を感じ始めました。

 そこでスカリーは1990年頃、遅ればせながら Pink, Hurricane という2つ  のプロジェクトをスタートさせます。Hurricaneは 68シリーズで動いてい  るマックのOS をモトローラの次世代CPU 88000 に乗せ換えるというもの。
 そして Pink は Bill Gatesが数年前に提案した通り、IBM-PC上でマック  のソフトを動かすというプロジェクトでした。

 ところがPinkのデモを見たIBMがアップルに接触してきました。IBMはOS/2  のプロジェクトからMicrosoftが離れようとしているため、新たなパートナ  ーとしてAppleに声を掛けて来たのです。そして、IBMは インテルのCPUで  はなく、IBMが今まで高性能コンピュータ用に開発してきた Power の上で  マックOSを動かさないか、と提案してきたのです。

ここにおいて、色々な話し合いの結果、IBMのPowerとモトローラの88000 を合体させた新CPU PowerPC が作られることになり、マックのOSはこの Power PC に移植されることになりました。Pink, Hurricaneの両プロジェ クトが中止され、「Power Macintosh」のプロジェクトが動き出します。

 なお、このころからスカリーは仕事に意欲を感じることができなくなり、  会社の実権はMichael Spindlerに移りつつありました。そして1993年6月  スカリーは正式辞任し、スピンドラーが新たな社長になりました。

 このスピンドラーの許でAppleはPowerMac, Performa などを販売していき  ますが、ここからAppleは冬の時代を迎えることになります。

 後にスカリーは「私が辞めた時Appleは売上げ1位のパソコン会社だった。
 会社には一切の借金が無かった」と語りますが、その原因を作ったスピン  ドラーをスカウトしてきたのは、当のスカリーです。

ダイアリーが切り開いたPowerMac

PowerMacにマックのソフトを移植する作業は Rockn Roll および PDM と いう名前の少人数の2つのプロジェクトで進められました。しかし当時、 社内の多くの人間がこのプロジェクトは挫折するだろうと思っていたとい います。当時Appleは大企業病に犯されつつありました。

一方PowerMac用のソフト開発ツールはSymantechとの共同開発で進められ ていましたが、このソフトがいつまでたってもできあがるメドが立ちませ んでした。

このままではPowerMacは完成してもソフトが1本も無いという悲惨な状態 になる。一部の人が危機感を抱いていた時救世主が現れます。ドイツ在住 のアンドレアス・ホンメルというプログラマーがPowerPCで走るコンパイ ラを開発、マックの開発ソフトを開発していたMetroworksという会社に 売り込んで来ます。

MetroworksはこれをAppleに持ち込みますが、Appleは愚かにもSymantech と一緒に開発をしているのでといって断ってしまいます。しかしMetro worksはMacintosh用のソフトを作っている会社に個別に売り込み、この ソフトのおかげで、PowerMacの発売に、多くのソフトが間に合いました。

PowerMacの営業面で活躍したのはイアン・ダイアリーでした。彼は非常に 押しの強い、典型的な営業マンで、PowerMacの営業担当として抜擢される と、半ば独裁的な権力を行使して、強力な営業政策を進めました。彼の姿 勢には反発を覚えるものも多かったようですが、みんながその勢いに負け て、彼の言い分を認めてしまう、そういう人であったようです。

PowerMacintoshは1994年3月14日発売されました。

その高めの価格設定にも関わらず、高速なスピードとRISCという当時みん なが注目する技術が使われていることで人々の関心は高く、ものすごい 売上をあげて、同年第3四半期には全米で売上げ台数トップのパソコン・ メーカーになりました。

ダイアリーは実はもっと安くしたかったのですが、社内の決裁がどうして も取れませんでした。ダイアリーは他社に比べて異様に高くかかっている 研究開発部門の縮小などを求めますが、スピンドラーは拒否します。

そしてスピンドラーはそのころ、別のことを考えていました。

IBMはPowerMacの一通りの成功に気をよくし、更にこの路線を押し進める ため、Appleを買収しようと考えました。スピンドラーは結果的に自分が IBMの大株主になれるということで、この話に乗り気になります。

交渉は順調に進められ、法的な問題、特に独占禁止法対策などのことも 十分話し合われ、いよいよ1994年11月、両者の最終会談が開かれ、IBMの ルー・ガースナー会長と、AppleのスピンドラーCEO, マークラ会長との 直接会談が行われます。

しかし交渉は多くの人の予想を裏切って決裂してしまいました。

ガースナーが当時のAppleの株価37ドルを上回る1株40ドルで買収したいと 言ったのに対して、スピンドラーとマークラが60ドルでの購入を要求し、 更にはスピンドラーが合併後のIBMにおけるポストまで要求したためと言 われます。

その頃、市場でのPowerMacの売れ行きは当初の勢いを急速に失い、どんど ん、シェアを落とし始めていました。

迷走するスピンドラー

 マックは当時上位機は高価格で敬遠され、低価格機はWindows3.1との競争  にさらされていづれも苦戦していました。しかも、次世代のOSとされてい  た「コープランド」の開発が遅れに遅れ、いつ発売できるのか全く見当も  つかない状態でした。

経営がどんどん悪化していく中、IBMとの合併に失敗してしまったスピン ドラーは他の合併先を求めて迷走します。
東芝、ヒューレット・パッカード、コンパック、ソニー、フィリップス、 そして最後はサンと合併交渉を進めますが、どれもうまく行きませんで した。サンなどは昔逆にアップルが買収しようとしていた時期もあるの ですが、完全に主客が逆転していました。

一方、マックの原価切り下げのため社内改革を迫るダイアリーをスピン ドラーは突然解任します。
「社内には君ほどのすばらしい人物が就ける職が無いんだ。どんな仕事 も君にとっては役不足だと思うので、退職の手続きをしといてあげたよ」 スピンドラーは出張から戻ってきたダイアリーに何の予告も無しにそう 言ったと伝えられます。

 この「彼に見合う職が社内に無いので」という言葉はこの後、何人もの  Appleの功労者を斬る時の文句として使用されました。

 相次ぐ幹部の首切り、大量のリストラ、めまぐるしく相手の変わる合併話。
 アップルの社員はくたくたに疲れ、意欲も何もなくしつつありました。

 1996年2月スピンドラーは解任され「再建屋」の異名を持つ、Gilbert  Amelio が新しいCEOに任命されました。

建て直しに奔走するアメリオ

Gilbert Amelio は最初フェアチャイルド・カメラにいましたが、ロック ウェルに招かれて、破綻していた同社を見事再建。続いてナショナル・ セミコンダクターに招かれて、ここも見事に立て直すのに成功していまし た。しかし彼が今まで再建したIC会社とは違い、ここはパソコン会社。
彼もいろいろ当惑する面があったようですが、アメリオは全力を尽くしま した。
アメリオはまず社員のやる気を奮い立たせるべきだと考え、新しい訓辞 を公表。これは大変好評で、多くの人がこれを印刷して自分の机に張り 付けたといいます。
アメリオは次いでナショナル・セミコンダクター時代のスタッフの一人 エレン・ハンコックを連れてきてソフトウェア部門の管理をさせました。
彼女は最大の問題であった「コープランド」のプロジェクトを調査。この プロジェクトはもうダメだと判断します。

マッキントッシュのOSは1980年代末に導入された「疑似マルチタスク」の 状態で動いていました。一方のライバル Windowsは 1995年のWindows95で 完全なマルチタスクになっています。ところがコープランドというのは OSはマルチタスクになるものの、その上で動作するソフトは疑似マルチタ スクという仕様で開発が進められていることが分かりました。

あまりにも開発に時間がかかってしまったため、時代に取り残されてしま ったのです。

アメリオはコープランドの開発中止を決断します。そしてその代わりの 選択肢を考えました。

 ・なんとかコープランドを改良する・・・無駄な投資になる可能性大  ・新たにマルチタスクOSを開発する・・時間が足りない  ・どこかのOSのライセンスを受ける・・Windows? OS2? Unix??  ・どこかのOSを買う。

 Windowsのライセンスを受けた場合、今度はMacintoshはハードの価格面で  どんなにがんばっても IBM-PC に勝てる訳がありません。結果的にはMac  のハードも捨てて、IBM-PCの互換機メーカーになる道しか残されていませ  ん(PC98が辿った道)。そんなAppleに誰が付いてきてくれるでしょうか。

 アメリオは最後の選択肢を選びます。「どこかのOSを買う」

 この話が巷でささやかれ始めた時、多くの人が「B」だと思いました。B  はAppleの元副社長、Jean-Louis Gassee が作った会社で、PowerPC上で  OSが動作していました。その先進性は多くの人が認めるところでした。
 
 ところが蓋を開けてみると、Appleが買ったのは NeXT でした。そして、  NeXTの Steven Jobs がアメリオの顧問として、Appleに復帰するという  発表が行われ、人々の度肝を抜きました。

 そして、すさまじい拍手の嵐がわき起こりました。

引導を渡したウーラード

アメリオはその後もAppleの赤字部門をどんどんリストラしていき、Newton のプロジェクトなども中止されました。また、マックの互換機については 単にマックの市場を食っているだけで、全く拡販の役に立っていないとして ライセンス提供を中止します。またソフト開発部門に対しても大鉈をふるい、 彼自身がスカウトしてきた、ハンコックなども解任されてしまいました。
このあたりの動きにはジョブスの意志がかなり働いていたのではないかと もいわれます。このとき、アメリオとジョブスは「次の一手」を考えてい ました。しかし時はそれをゆっくりと待っていてはくれませんでした。
アメリオがAppleの社長に就任した後も、アップルの業績はどんどん落ちて いました。それがNeXT社の買収で更に財務体質を悪化させ、ジョブス復帰 後も、Appleの営業成績は下がる傾向に歯止めがかかりませんでした。
その現状を憂慮し、数年前からAppleの経営に関わっていたデュポンの元 会長、エドガー・ウーラードはアメリオに、この経営悪化の責任を取って 辞めるよう言い渡します。そして更にウーラードはこの会社の創業者の一 人であり、最初からずっと経営陣にいた唯一の人物であるマイク・マーク ラにも長年の経営の混乱の責任を取って辞めるよう求めます。マークラに それを通告しに行く役目は、ジョブスが買って出ました。
(ウーラードは現在でもアップルの経営方針について最も発言力のある 役員のようです) ジョブスがマークラに協力を求め、マークラが全財産を投入してくれたか らこそ、アップルという企業は生まれました。しかしジョブスとスカリー が対立した時、マークラはスカリーを支持しました。二人の会談は積年の 想いが募り、互いに涙を流して、悲しいものであったといいます。
思えば、ジョブスかマークラのどちらかでも、ビル・ゲイツの半分ほどで いいから大きな企業を動かしていく才能があれば、Appleの悲劇はなかった のでしょう。

復活の象徴iMac

1998年5月6日。

 ここからアップルの大反撃が始まりました。この日、Steven Jobs暫定CEO  は「マッキントッシュの時代は終わった」と衝撃的な発言をして、更に  衝撃的なこのマシンを紹介しました。
 
 iMac。
 
 ディスプレイ一体型。CPUはPowerPC-G3 233MHz, メモリーは32MB, 24倍速  CD-ROM, 100-Base-T Ethernet, 33.6Kbpsモデム内蔵, USB搭載, FD無し。
 前年に出たPowerMacと並ぶスペックです。そして価格は1299ドル。
 
 その高性能のわりに低い値段であったこと以上に、みんなの目を奪ったの  は、そのスケルトン・ボディでした。このマシンは、それまでアップルに  失望してWindowsマシンに鞍替えしていた多くの元アップル・ファンの心  もくすぐりました。
 
 このスケルトンボディは前年 eMate で使用して好評を博したものですが  新しい時代のMacを象徴するのに良いデザインでした。
 
 このマシンはアメリカの新学期セールにぶつけて8月に発売され、アップル  の営業成績を大きくのばすことになります。
 
 その後iMacはカラー・バリエイションを展開、またノートタイプの iBook  も発売されています。
 
 Jobsは言います。タワー型は(拡張ボードを入れたい)少数のパワーユー  ザ向けの製品である。ノート型は持ち歩き用。これからのマックの主流は  このiMacになるのだ、と。
 
 これは恐らく家の広いアメリカでは正しいことでしょう。
 
 日本でもiMacは特に女性の支持をうけ、今までパソコン持ってなかったけ  ど、iMacを買ってインターネットを始めようという人が多く現れました。
 結果的にはiMacは、パソコンそのものの普及も後押ししたことになります。
 
 私はJobsがいったん切ったNewtonの後継をどう考えているかが興味ありま  す。それこそ、JobsとSculleyが追い求めていた『Dynabook』になるべき  もののはずです。


↑ Dropped down from digital episode.
(C)copyright ffortune.net 1995-2016 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから