JKB (JIS Keyboard) JIS配列キーボードSKBとも。 

JKT48 (JaKarTa 48) 秋元康がプロデュースしたアイドル集団。インドネシアの  ジャカルタで活動。詳細はAKB48参照。
JJ 若い女性向けのファッション雑誌。「ジェイジェイ」だがしばしば  「ジェジェ」と発音される。光文社発行。 http://www.ibj.co.jp/jj/index1.htm
JLA (Japan Linux Association) 日本Linux協会。
JLD (Jpeg LoaDer) PC9801用のフリーウェアで、JPEG画像をPC9801に  表示するソフト。このソフトが出た当時のPC9801は256色中の16色しか表示  できなかったが、ふたつの表示用バッファを高速に切り替えながら表示する  という手法で、擬似的に64色表示を実現していた。
JLE (Japanese Language Environment) Sun Microsystems の Solaris上の  アプリケーションから日本語入力を使用するためのライブラリ。
JLIP (Joint Level Interface Protocol) ビデオ、テレビ、オーディオデッキ  などなどのAV機器を相互接続して制御するための通信制御プロトコル。  日本ビクターが開発した。
JLUG (Japan Linux Users Group) 日本Linuxユーザ会。現在はJLAに移行  している。
JM (Judy and Mary) 日本のポップスグループの名前。Judyとい人とMaryと  いう人で組んだバンドではなく、JudyとMaryは明るい女性と内気な女性の  代名詞で女性の気持ちの両面を歌おうというもの。
JMA (Japan Management Association) 日本能率協会  →AMA
JMA (Japan Medical Association) 日本医師会
JMA (Japan Meteorological Agency) 気象庁。  →JWA
JMAGIC 東芝が販売しているJava対応ICカード。
JMAN (Japanese Manual) (Unixの)操作マニュアルの日本語版。
JMAPI (Java Management API) Javaのサービスを提供する際の多数の  コンピュータ環境をJavaで管理するためのソリューション。
JMCA (Japan MotorCycle accessories Association) 全国二輪車用品連合会。
JMF (Java Media Framework) Java環境でストリーミング配信おこなう  ための共通フレームワークを開発するプロジェクト。
JMI (Japan Machinery and Metals Institute) 機械電子検査検定協会。
JMPA (Japan Magazine Publishers Association) 日本雑誌出版協会。  http://www.j-magazine.or.jp
JMSC (Japan MIDI Standard Comittee) MIDI規格表示会。  日本のMIDIを管理している機関。実際の運用はMMAと合同で進めている。
JMSDF (Japan Maritime Self Defence Force) 海上自衛隊
JMTBA (Japan Machine Tool Builder's Association) 日本工作機械工業会
JNDI (Java Naming and Directory Interface) JavaからDNSなどにアクセス  するためのインターフェイス。
JNIC (Japan Network Information Center) JPNICの昔の名前。
JNN (Japan News Network) TBS系のニュース配信網
JNR (Japan National Railways) 日本国有鉄道。1987年分割民営化された。  →JR
JNTA (Japan National Tourist Association) 日本観光協会
job →ジョブ
Jobs,Steve (1955-) スティーブ・ジョブス。Steven Paul Jobs.  Appleの創業者・CEO。NeXTの創業者。    彼の名前はSteveと書かれたりStevenと書かれたりしてどちらが本当なのか  よく分からない。現在Apple社のサイトにはSteveと書かれているのでそれを  採用しておく。Appleのもうひとりの創業者であるSteve Wozniakと同名で  あるが、二人は社内では、Jobsが「スティーブ」、Wozniakは「ウォズ」と  呼ばれていた。二人ともSteveであるということから、初期の頃Appleを紹介  した日本語の記事には「創業者のSteve兄弟」などと書かれていたものもある  がもちろん二人は兄弟ではない。そもそもSteveはFamily Nameではなく  Personal Nameである。    Steven Paul Jobs は1955年2月24日シリコンバレーのマウンテンビューに  生まれた(ロス・アルトスという説も)。高校時代にパロ・アルトのPARC  で子供向けのコンピュータ講座が開かれていたため、放課後熱心にそこに  通う。このとき同じ講座に熱心に通ってきていたのがSteve Wozniakであ  った。なお、この時まだAllan KayはPARCに来ていない。KayがPARCに来た  のはSteveが高校を卒業した1972年であり、両者はこの時はニアミスだった。    Steveは高校を卒業するとポートランドのリード大学に進学するがすぐに  中退。しばらくヒッピーのようにして各地を放浪していた。この時一説に  よればインドを旅していて林檎の木の下で瞑想するグループに入っていた  のがのちに会社を興した時にApple という名前にした理由であるともいう  が真偽は不明である。    この放浪生活は2年ほどでうち切られ彼は1974年ゲームソフトメーカーの  Atari社に入る。この時期からまたWozとの交友が復活。二人は一緒に色々な  ソフトを作ったりしていた。この時WozはHewlett-Packardに勤めていた。    1975年そのWozが特価20ドル(6000円)というとんでもなく安いCPUを見付けて  くる。Moss Technology社の6502というCPUであった。実はのちに任天堂の  ファミコンにも使用された優秀なCPUである。工作好きの彼はこれでコンピュ  ータを組み立てようと考え、Jobsの家のガレージで最初のパソコンを組み立て  た。これがApple Iのプロトタイプである。    彼らはこの作品を市内のパソコンクラブに持ち込むと、いい値段で買い取って  くれた。ただし店主は「次に作る奴はもう少し外装をまともにしろ」と注文を  つけた。Wozは純粋な技術者なので、外見はあまり凝らないのであるが店主は  この製品が見込みがありそうだというので敢えてアドバイスをしたのである。  その後、そういう「売れるようにする」方面はJobsがいろいろWozに助言して  いく形になったようである。    彼らはこの商品をもっと大々的に生産したいと思ったが、なにしろお金がない。  そこでJobsもWozもそれぞれが勤めているAtari社, Hewlett-Packard社に資金  の提供を申し込むが、どちらも断られてしまう。しかしJobsの上司が Intel  の Mike Markkula を紹介。Markkulaがこの話にのって、彼らに大量の資金を  提供してくれた。これで彼らはApple の量産機Apple IIの製造に取り組む  ことができた。1977年1月3日Apple社が設立され、Markkulaが会長、Jobsが  副会長、Micahel Scottが社長、Stephan Woznikakが副社長となった。    その後同社はALTOに刺激を受けて「誰でも使えるようなコンピュータ」の  開発に取り組み始めたが、実はこの時点で Jobs と Woz の間に路線の違いが  出始めていた。Jobsはその後経営のプロとしてスカウトしてきたJohn Sculley  とともにこのプロジェクトLisaに取り組んでいたが、技術屋のWozとしては  そういう方面にコンピュータのパワーを使うことには反対であった。彼は  コンピュータの性能はそのできるだけ多くのパワーを処理のために振り向ける  べきで「使いやすい」コンピュータなどというのは邪道であると考えた。    JobsやSculleyとWozとの間の路線の違いがはっきりしてきて、抜き差しなら  ぬものになりはじめたころ、Wozが飛行機事故にあって大怪我をしてしまう。  彼はこれを期にサボタージュを始め、怪我が治っても会社に出てこなくなっ  てしまった。ここに至って、やはりWozとの仲を決裂させるわけには行かない  と思ったJobsはギリギリの決断をして、Sculleyを解任してLisa/Macintosh  のプロジェクトを中止しようとした。ところが取締役会で彼は多数派を形成  することができず、Sculleyの意見のほうが通ってしまう。    そこでJobsはWozとともにAppleを退任してしまった。1985年のことである。    そしてその後Sculleyの指揮のもとで生み育てられたMacintoshはAppleを  黄金時代に導くのである。    Appleを辞めたJobsは、自分一人で新しいコンピュータを作ろうと考えた。  その時彼が注目したのがUnix系のOSMachであった。彼は当時まだどこも  採用していなかったCD-ROMを搭載した新しいマシンを作り上げる。これが  NeXTで、1988年10月12日発売されると、世界中に大きな反響を呼んだ。    ただこのマシンは話題になるにはなったが、あまり売れていない。    一方のAppleはSculleyの時代は良かったのだが、1993年彼が退任して  Michael Spindlerが新しい社長になると、急速に求心力を失い、また経営  方針が二転三転して多くの社員と多くの利用者に呆れられるようになる。  またAppleが他社に先駆けて発売するはずだって先進的なOSはいつリリース  されるのか予測も付かない状態が続いた。Appleは大きく業績を落とし、  また創立以来この会社を支えてきた多くの幹部社員が、あるいは自ら退任  し、あるいはSpindlerに解雇されて、Appleを去っていった。    JobsとSculleyが8年かけて育ててきた会社をSpindlerはわずか3年で全て  ボロボロにしてしまった。1996年Spindlerは解任され、Gilbert Amelioが  新しい社長に指名される。    「再建屋」Amelioはただちに社内の状態を調査し、その時のAppleがもう  救いようのないほどひどいものであることを知って愕然とする。何年も  かけて開発されていた「次期OS」は実際問題として、フルスペックで完成  したとしても、とっくに時代遅れになっていたようなものであることも  判明した。彼はもうMacOSはダメだと判断し、どこか別の会社のOSを買う  しかないと決断した。そして彼が声を掛けたのがNextであった。    1996年12月20日、AmelioはAppleがNext社を買収したことを発表し、世界  中のアップルファン・元アップルファンたちを歓喜させた。そうして  Steven JobsはAppleに戻ってきた。    Amelioは彼にただちにCEOに就任して陣頭指揮をしてほしいと依頼するが  Jobsはいろいろ理由を付けてこれをかなり先延ばしにした。1997年Amelio  は辞任し後事をJobsに託すが、Jobsは「暫定CEO」という形で同社を指揮し、  2000年になってやっと正式にCEOに就任した。    復帰後のJobsが打ち出したのは「コンパクトなパソコン」であった。その  斬新なデザインが度胆を抜いた iMac をはじめとして、iBook, eMac など  意欲的な商品を次々と市場に投入している。    もし彼が戻ってきていなかったら2000年頃までにAppleという企業は消滅  していたであろう。