追儺の始まり

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文武天皇の世、慶雲3年(706)に疫病がはやり多くの百姓が死んだため、「土牛」を作って疫気を祓ったという記事が続日本書紀に出ています。これが追儺の行事の始まりであるとされています。

この土牛を使う儀式は中国の礼記に「土牛を作りて寒気を送る」とあることを参考にしたものと思われますが、陰陽師(おんみょうじ)たちによってやり方が整えられ、平安時代の頃には次のような形に発達していました。

大寒(12月節)の日に宮中の12の門に12組の土牛童子を立てる。これは童子が牛を引く形の人形であるが、東の陽明門・待賢門には青い土牛童子、南の美福門・朱雀門には赤い土牛童子、西の談天門・藻壁門には白い土牛童子、北の安嘉門・偉鑒門には黒い土牛童子、そして残りの、東の郁芳門・南の皇嘉門・西の殷富門・北の達智門には黄色い土牛童子を立てる。これを立春(1月節)の日の前夜半時に撤去する。

この5色の配置は五行をご存じの方でしたらお分かりの通り、各方角の色を使用したものです。五行の配色は、木=青=東、火=赤=南、土=黄=中央、金=白=西、水=黒=北となります。牛を使っていますが、十二支の丑も五行では土に当たります。また12月というのも十二支でいうと丑の月です。また土牛だけでなく、そこに童子がいるのですが、童子というのは易でいうと艮(山)という卦になります。これは方角としては東北、つまり丑寅の方位。丑月は12月、寅月は1月ですから、この童子というのは12月から1月への時間の切り替わりを表現しているのです。また丑寅の方位というのは、古来より鬼門と呼ばれ、鬼の出入りする方角でした。ですから、この土牛童子というのは、ここに各種の邪気を集めてしまうためのものともいえます。それを捨ててしまえば邪気は祓えることになります。

また、そもそも「鬼」という字は「おに」と読んでいる訳ですが、「おに」という日本語はもともと「おん」つまり「陰」のことです。目に見えない気、主として邪気のことを「おに」と言ったわけですが、十二支の丑というのも陰陽でいうと陰になります。色々とこの行事には符合があるわけです。ちなみに鬼が牛の角を付け、虎の皮のパンツをはくようになったのは後世のことです。このときも鬼門が丑寅の方角なので、牛と虎に関したものを身につけるようになった次第です。

平安時代の宮中の追儺の儀式では陰陽師が祭文を読み、黄金の4つ目の怖い面をつけた方相氏が矛と盾を持ち、その矛を地面に打ち鳴らしながら「鬼やらい、鬼やらい」と言って宮中を歩き回ります。そしてその後には殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続くのです。桃や葦にも古来より邪気を祓う力があるとされていました。


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