酒呑童子はほかの多くの鬼たちと一緒に大江山に住んでいました。
都では鬼による被害が大きいため、鬼退治をすることになり、その任務に源頼光が任命されました。
頼光は配下の四天王と呼ばれる渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武、および友人の藤原保昌(後世では彼の名前は消えてしまった)、および彼らの家来数名を連れ、大江山に向かいました。(坂田金時は「足柄山の金太郎」として有名。渡辺綱は一条戻橋や羅城門でも鬼に遭遇しています。)
途中、一行は三人の老翁に出会います。三人は実は石清水八幡・住吉明神・熊野権現の化身でした。老人たちは頼光らに、隠れ蓑と神酒を授けました。隠れ蓑はそれを着ると鬼には姿が見えなくなり、神酒は人が飲めば力がつくものの、鬼が飲むと神通力を失う、というものでした。そして、老翁たちは頼光らに、その姿では警戒されるので、山伏の姿に変装するとよいと助言しました。(神様が4人のバージョンもある。もう一人は日吉山王。また神々がこのあと同行するバージョンもある)
そこで頼光らは老翁たちにもらった山伏の衣装に着替え、乗ってきた馬などは家来たちに連れて帰らせ、6人だけで山奥へ分け入って行きました。
やがて一行は川で血の付いた布を洗う老婆(一説では若い娘)に出会いました。
老婆は頼光たちを見ると「ここは鬼の里です。見つかると大変ですから、お逃げなさい」と言います。しかし頼光らは「我々はその鬼を退治に来たのだ」と告げ、老婆に、あなたはどういう方なのですか?と問います。すると老婆は涙を流しながら、身の上を語りました。
それによると、老婆は元は都の貴族の妻でしたが、鬼たちにさらわれたのだといいます。しかし痩せていたため、おいしくなさそうだ、ということで食べられるのを免れ、鬼の神通力で200年の寿命を与えられ、こうして下働きをしているのだということでした。そして老婆は頼光たちに鬼の城への道筋や鬼の城の中の様子などを教えました。
やがて、頼光たちは鬼の城に到着。道に迷ったので泊めて欲しい、と言いました。
鬼たちは承知して、一行を中に入れます。すると頼光は泊めてくれるお礼に、と酒を差しだし、鬼たちもそれを喜んで酒盛りが始まりました。
大将の酒呑童子(しゅてんどうじ)、の他、四天王の星熊童子・虎熊童子・熊童子・かね童子(他に、いくしま童子という名前も見られる)、そして近所の山から来ていた茨木童子もいました。酒盛りが進むに連れ、鬼たちは上機嫌になり、やがて酒呑童子は自分の身の上を語り始めました。
『自分は最初比叡山に住んでいたが、伝教大師が延暦寺を建てて結界を張ってしまったので居れなくなり、九州の英彦山に移った。その後伯耆大山・白山・立山・富士山と移り、最後はこの山に移ってきた。最近は伝教大師・弘法大師のような強力な術者がいないので、都に嵐を起こしたりして楽しんでいる』
やがて夜になりました。頼光らは起きだして老婆に聞いていた鬼の寝床に向かいます。そして老翁たちにもらった隠れ蓑をつけて酒呑童子のそばに近寄り、一気に首をはねました。
酒呑童子の首ははねられたまま頼光に飛びかかり、その兜にかみついたまま動かなくなりました。酒呑童子は最期に「おのれ、図ったか。鬼は決して人をだましたりしないものを」と言ったともいいます。
続いて頼光たちは他の鬼たちも次々と倒し全滅させました。そして鬼の亡骸を火葬にすると、山を降りました。途中、老婆と出会った川のところに、人の骨が倒れていました。あの老婆が、鬼の神通力がなくなり、寿命により本来の姿に戻ったものでしょう。頼光たちは老婆の骨を丁寧に葬り、都へと帰っていきました。
一説によると酒呑童子の首は坂田金時が「証拠として都に持ち帰りましょう」と言ったため、持って帰ろうとしたのですが、都の近くの老ノ坂までくるとふいに首が動かなくなってしまいました。そこでやむなく酒呑童子の首をそこに埋めたといいます。現在その地は「首塚明神」として祭られています。(この地に居た地蔵様が「不浄の首を都に入れることはまかりならぬ」と言い、それから動かなくなったという説もあります。また都まで無事持ち帰れたという説もあります)
彼の父親は伊吹弥三郎といい、八俣大蛇(やまたのおろち)を祭る一族の出身でした。
しかし弥三郎は変化のもので、伊吹山の山中に住み、夜になると、遠く関東や九州などまで出かけては人家を襲ったりしていました。しかしある時、近江の国の大野木殿の娘と愛し合うようになり、父親も相手がそのような変化の者とは知らず結婚を許しました。
しかし祝言の晩、弥三郎は酒を飲み過ぎ、その正体をあらわしてしまいました。
驚いた大野木殿は弥三郎を斬り捨てました。
しかし、娘はその時弥三郎の子供を既に宿していました。その子供は胎内に33ヶ月も留まった末生まれました。大野木殿はその子を伊吹山の山中に捨てました。
捨てられた赤ん坊は最初こそ泣いていましたが、やがて元気に野山を走り回るようになり、山中の狼や猪なども彼になつき、伊吹童子は山の神様に守護されて成長しました。
酒呑童子は酒顛童子・酒天童子・酒伝童子とも書かれます。この名前については上記佐竹説のほか、高橋昌明氏は中国の「斉天大聖」(=孫悟空)から来たのではないか、という説を提出しています。
また、酒呑童子の出生に関しては、越後の柏崎の生まれという説もあり、そちらではこの地に流罪になった桃園親王の家臣が戸隠権現に参拝祈願して授かった子で、元は外道丸といった、ともいいます。外道丸は国上寺で稚児をしていましたが、彼に言い寄る娘がみな死ぬという怪奇がありました。恐ろしくなった外道丸が死んだ娘達からもらった恋文を燃やすと、その煙の中で外道丸は鬼の姿に変身してしまったといいます。
なお、伊吹弥三郎については、佐々木頼綱という武将が摩利支天の秘法を使って倒したという伝説もあります。その伝説では倒された弥三郎の怨霊がまた災いをなしたため、井の明神として祭ると、その地の守護神となったと言われています。
この伊吹弥三郎には実はモデルがいて、近江国坂田郡柏原荘の柏原弥三郎という地頭です。彼は数々の非道を働いたとして、お上から追われる身になりますが、正治2年(1200)に伊吹山に逃げ込んで山中に身を隠しました。これを翌年佐々木信綱が誅した、というのが「吾妻鑑」に記されています。
史実で佐々木信綱が倒したものが伝説では佐々木頼綱になっていることについて、佐竹昭広氏は「頼綱」が、大江山鬼退治の源頼光と同じ「らいこう」という音になるからではないか、と推察しています。
なお、源頼光は948年生1021年没ですから、歴史的には大江山の事件の方が先で、実際問題として伊吹弥三郎伝説では、弥三郎が酒呑童子の再来として恐れられたというのもあります。再来だったはずが、いつのまにか酒呑童子の父として伝説が形成されていったのでしょう。
なお、酒呑童子の伝説に関しては下記の文献が基本のようです。