■「鬼」を何と読むか?
現在「鬼」という字は普通「おに」と読まれていますが、有名な「九鬼文書」(くかみもんじょ)のように「かみ」と読むこともあります。また古代には「もの」と読んだ例もあるようです。「もののけ」の「もの」ですね。
この文字は中国ではgui(キ)と読み、人間の霊魂あるいは亡霊を意味する文字ですが、日本では初期の段階では霊的な存在一般を表すのに使用されたようです。
■「おに」の語源は?
「おに」の語源について多くの本が判で押したように、源順「倭名類聚鈔」(937頃)の「隠(おぬ)が訛ったもの」という説を取っています。
すなわち、「おに」というのはそもそも「見えないもの」であったのが、やがて仏教の夜叉・羅刹などを描いた絵画の影響で、現在のような鬼の姿が描かれるようになったとしています。
しかし私はこの説には必ずしも納得していません。「おぬ」から「おに」に変化するというのは、ありそうでもありますが、やや苦しい感じもします。(そもそも「おぬ」という読みで霊的存在を表現した例はあるのでしょうか?)
「おに」は大和言葉なのではないか、という説もあります。しかし大和言葉だとすると、それをなぜ十世紀の源順が知らなかったのだろうか?というのも疑問点として残ります。あるいは非常に古い言葉で、その頃には既に「鬼」という字と密接に結びつき、もう語源が不明になっていたのでしょうか?
(この問題については、後でもう一度触れます)
■初期の「鬼」
「おに」の初出は多分日本書記(720)の欽明天皇5年(544)12月の項だろうと思います。
『彼嶋之人、言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。』
(その島の人、人にあらずともうす。また、おにともうして、あえて近づかず)
『有人占云、是邑人、必為魅鬼所迷惑。』
(人ありて占いていわく、必ずおにの為にまどわされん)
ここで「鬼魅」「魅鬼」という単語が出てきており、一般にはこれにどちらも「おに」と訓をつけています。
しかし「魅」は「み」(中国音mei)という文字ですから、この熟語を「おに」と読むのは苦しいかも知れません。
具体的にはここに出てきている「鬼魅」というのは外国人の海賊か何かをさしているのではないかと思われます。
また、日本書紀では斉明天皇の葬儀の時(661)に、「朝倉山に鬼が出て大笠を着て葬儀をのぞいていた」という記述があります。
初期の頃の鬼の姿で、笠をかぶり簑を着ているというのはポピュラーな姿でした。これはいわゆる稀人(まれびと)の姿であり、現代でも秋田のなまはげにその名残を見ることが出来ます。
この日本書紀の次は出雲風土記(733)です。これの大原郡阿用郷の項に「目一鬼」(まひとつのおに)というのが出てきます。この地方に目一鬼が人を取って食ったという伝説があることが記述されています。この「目一鬼」は地方柄、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と関連があるのではないかと思われます。
天目一箇神は出雲地方で盛んであった製鉄の神様で、一つ目の神様ですが、焼けた鉄を見つめている内に視力を失った人の象徴ではないか、と一般に言われています。(一つ目は太陽の象徴であり、太陽神ではないかという説もある。)
ごくごく常識的な解釈をしますと、「目一鬼来たりて田作る人の男を食う」というのは、製鉄の作業に人手を強制的に徴用され、視力を失ったり命を落としたりした者が大勢いた、ということを表しているのかも知れません。
■平安時代の「鬼」
平安時代には鬼に関する記述がかなり増えて来ます。
●伊勢物語(904)
第6芥河の段。男が愛し合っていた女を連れだし、逃げる最中小屋に隠れていたら、そこに鬼が出て女を食べてしまいます。しかし鬼の姿自体は出てきません。このモチーフは源氏物語・夕顔の帖でも、寂しい寺で夕顔が物の怪に取り殺されるという形で使われています。
●枕草子(1002頃)
第153段に「名おそろしきもの」として牛鬼というのがあげられています。牛の角をはやした鬼でしょうか?
●大鏡(1081頃)
藤原師輔があはのの辻で百鬼夜行にあった話が収録されています。師輔は尊勝陀羅尼を唱えてこれをやり過ごしました。百鬼夜行に逢う話は今昔物語巻24の16にもあります。安倍晴明が子供の頃賀茂忠行に従って道を行っている時に出くわし、忠行が術を使って難を逃れたとされています。
●今昔物語(1106頃)
巻24の第24「玄象の琵琶、鬼の為に取られし語」。羅城門の鬼のところで述べました。ここでは鬼は姿は現していません。
巻27。この巻はまるごと鬼の話で、大量に記述されています。第8では鬼は男の姿をしていました。第13ではかなり恐ろしい形相になっています。真っ赤な顔で目は一つ。背丈は270cmくらい。手の指は3本で爪は15cmほど伸びていて刀のよう。目は琥珀のようで、髪は乱れている。第23では古典的な笠をかぶり、水干を着た鬼が出てきます。
現代につながる鬼の姿というのは平安時代後期くらいに形成されてきたのかも知れません。
■室町時代の「鬼」
室町時代になると、現在見るような感じの鬼の絵が残されています。
東京国立博物館蔵の「百鬼夜行絵巻」に出てくる鬼・妖怪たち、同館蔵「不動利益縁起」や清浄華院蔵「泣不動縁起」に出てくる式神などに、鬼の姿の原形が見えます。これらの絵は室町時代の作品です。
また、大江山の鬼退治などが収録されている御伽草子も室町時代頃にまとめられています。
■鬼に似たもの
鬼に似た扱いのものとして、まずよく言われる夜叉(やしゃ<ヤクシャ),羅刹(らせつ<ラクシャ)といったインドの鬼がいます。これは日本では法隆寺の玉虫厨子(600頃)にも既に描かれています。恐らくは仏教の輸入とほぼ同時に、釈迦説話などとともにこういった鬼の姿も輸入されたのでしょう。
つまり、日本人は既に7世紀には外国の鬼の絵姿を見ていたことになります。
同じ仏教関連でも地獄の獄卒である、牛頭(ごず)・馬頭(めず)はどちらかというと中国起源でしょう。敦煌などからも出土しています。源信僧都が往生要集(985)の中で言及しており、そのころには日本でも少なくとも一部の人には知られていたことになります。清少納言が書いた「牛鬼」もこの牛頭のことかも知れません。
上記「不動利益縁起」の式神が鬼のような姿で描かれています。室町時代の人は式神というのを鬼のようなものと考えたのかも知れません。「鬼」という名前のつくものとしては、役行者(えんのぎょうじゃ)が使ったいた前鬼・後鬼というのもあります。これが何なのかというのは意見が分かれるところですが、式神のようなものではないかという意見も有力です。
現代にみる牛の角を生やして虎の皮のパンツをはいた鬼については、いわゆる鬼門が東北の方位で、この方位は十二支でいうと、丑の方位と寅の方位の中間にあたるためである、というのが通説です。つまり「丑寅」の方角が鬼門なので、鬼は牛と虎の要素を持っているというわけです。
節分の豆まきのセリフで「鬼は内、悪魔外」という地方があります。この「悪魔」あるいは「魔」とはお釈迦様が修行していた時に誘惑に来たものです。インドではマラと呼びましたが、これを中国語に訳す時に「魔」という文字を発明して「魔羅」と音写しました。この魔羅を略して魔といい、特に邪悪なものであることを強調するとき「悪」を付加して「悪魔」と呼びました。
(男性器をマラと呼ぶのは、やはり修行中に誘惑する存在であるからです。ついでにいえばカルーセル麻紀が性転換手術を受けたモロッコの町の名前はマラケシでした。別にマラを消す町という意味ではありませんが...)
能面の「般若」は鬼のような顔をした女の面です。通常燃えたぎるような嫉妬を表す手段として使用されます。似た面に「蛇」がありますが、般若には耳があり、蛇は舌が出ていることで区別できます。基本的には「般若」の段階ではまだギリギリ人間ですが、「蛇」になるともう人間ではなくなっています。
般若には、赤般若・白般若・黒般若の三種類があり、白般若は「葵上」、赤般若は「道成寺」、黒般若は「安達原」などで使用します。
なお、もともと「般若」という言葉は仏教用語でパンヤの音写。智慧という意味です。これは知識よりも高度の精神的働きを表します。なぜ、その「般若」が鬼女の面になってしまったかというと、この般若面を最初に作ったのが、般若という名前の面打ち師であったため、というのが一番通っている説のようです。
「北野天神縁起絵巻」には雷神と化した菅原道真公が清涼殿に雷を落とすシーンがダイナミックに描かれています。この雷神の姿はやはり鬼に似ています。
一般的な「雷様」のイメージというのは、鬼と同じような姿で、太鼓を持っているものです。この太鼓を叩くと雷鳴が轟き、雨が降るということになっています。
■鬼の権威低下
平安時代から室町時代頃まで恐れられた鬼ですが、江戸時代以降はどうもその権威が低下してきて、人々が闇の中に見る恐怖はむしろ「幽霊」の方に移っていったようにも思えます。
鬼は、一寸法師・桃太郎などの昔話の中でやられる者としてとらえられ、節分の豆で追い払われ、来年のことを言うと笑う存在になってきました。
それどころか、浜田広介(1893-1973)の「泣いた赤鬼」になると、鬼は人間と仲良くしたいと思っています。鬼もずいぶんとフレンドリーな存在になってきたものです。(この問題についてはまた後で触れます)
戦時中はアメリカやイギリスのことを当時の政府が「鬼畜米英」と言わせ、桃太郎がその「鬼畜米英」を倒しに行く、などという物語まで作られたりしています。ここで鬼はもう恐れるべき相手ではなくなっていました。倒せる相手だと思ったからこそここに「鬼」が出てきたのでしょう。
■鬼はいるのか?
さて、現代の日本において、幽霊の存在は信じる人が多いですが、鬼の存在を信じる人は非常に少数だと思います。しかし「鬼」と呼んでよいものは確かに存在しているようです。これはたちの悪い悪霊の一種であると考えていただければよいかと思います。
基本的にこういった「鬼」は陰陽五行説的に言えば陰(マイナス)の気が極端に集まったものです。
そういう「鬼」が潜んでいる場所は日本中にいくらでもあるようです。そういう意味では「鬼」は「陰」と通じるものがあります。
さて、1000年前の源順は「鬼(おに)」を「隠(おぬ)」と考えて、「見えないもの」と考えたのですが、どちらかというと「陰(おぬ)」だったかも知れません。
鬼はよほど強烈なものでないかぎり、一般の人の目には見えません。通常描かれる鬼の姿というのは、こういったものを感じ取ることのできる人が感じ取った雰囲気を絵にしたものでしょう。そういう意味では、あの鬼の姿は純粋な想像の産物とはいえない面があります。
こういう霊感的な力というのはほんとうは誰にでもあるのですが、こちらから相手が見えると、それに相手も気付いて逆に危険ですので、普通の人の場合、小さい頃にそういう回路は閉じられてしまいます。しかしまれに、そういう回路が何らかの原因で閉じられなかった人たち、あるいは何らかのきっかけ(一般には大病や臨死体験など)でそれが突然開いてしまう人もいます。
こういった純粋な意味での「鬼」以外に、過去の日本の歴史の中で「鬼」として取り扱われてきたものがあります。それは「よそもの」です。
日本書紀の欽明天皇の巻に描かれた「鬼」は実際問題として外国人のようです。民俗学者の一部には、「鬼」というのは通常暮らしている共同体の範囲外に住む人のことである、と捉える向きがあります。これは確かにそういう面があったようです。
一般に昔の日本の村では、村の一番外側のところに、道祖神・地蔵・あるいは巨石・古木などがあって、そこが一種の結界になっていました。そしてその結界の外側に存在するものは「鬼」として処理されたのです。
道祖神はその「鬼」の不法侵入を防ぐ働きがあります。これは仲のよい男女神なので、その間を無理矢理通り抜けようとすると、「邪魔するな」とばかりに跳ね返されてしまう訳です。
この共同体の外のものを「鬼」とみなすという心理構図は、例えば「おむすびころりん」で穴の中に落ちたおむすびを求めて行くと、そこには鬼がいた、などといった話の中にも見ることができます。桃太郎も海を越えて鬼ヶ島に行きました。海はこの世界とあの世界を隔てる結界です。
そして、この構図は戦時中に敵国に対して「鬼畜米英」という言葉を使ったところにも通じるものです。つまり日本という大きな結界の外にいるものは全て「鬼」だという思想がそこにはあったのでしょう。
しかし、この「よそもの」は害をなす場合は「鬼」ですが、福をもたらす場合は「稀人(まれびと)」になります。
つまり「訪れる神」で、日本神話の世界でも、恵比須神・少彦名神・事代主神などがこの「稀人」型の神です。日本にはこういった「稀人」を迎え入れる神事を行っている地方があります。能登半島の「あえのこと」、男鹿半島の「なまはげ」などはそのタイプの祭と考えられます。沖縄方面にも海からやってくる神様を迎えるお祭りをするところがあるようです。
日本とアメリカの関係も戦時中は「鬼」と呼んでいたアメリカを、戦後は一転して神様のように扱い、日本人はこの50年間、どんどんアメリカの真似をしてきました。やはり「おに」と「かみ」は転換可能な面もあるのでしょう。それ故に「鬼」の字を「おに」とも「かみ」とも読むのかも知れません。
アメリカとの関係については、戦時中は日本という単位の結界が使用されていたのに対し、戦後は日本とアメリカをまとめた結界が使用されるようになったことからくる転換と考えることもできます。つまり「仲間」の範囲が広がった訳です。浜田広介の「泣いた赤鬼」も象徴的です。これはそれまでよそものとされていた人が村人が認めることにより、「仲間入り」したことを表します。近代の特徴として、人々の「身内」とみなす範囲がどんどん広がってきていることがあげられます。以前は村までだったのが明治以降日本全国がひとつになり、戦後は欧米まで広がり、最近はその結界の中にアジアを加えようとしつつあります。
「おむすびころりん」の物語は心理学的にも面白いものです。おむすびがころがり落ちた穴。そこは外界に通じる、結界の外であると同時に、足元にあるもの、つまり心の中にあるものでもあります。
いくら外に結界を張っても、心の奥底には深い闇が広がっています。鬼は私たちの心の中にも潜んでいるかも知れません。