平安中期には千秋萬歳(せんずまんざい)というものが成立しており、これを専門とする人たちを声聞師(しょうもんじ)といいました。(記録に残る最古は1149年)彼らは陰陽師(おんみょうじ)の配下になっており、宮中に秘術として管理されていた陰陽道の呪術・儀式を庶民にまで広げていく役割を果たすことになりました。
彼ら声聞師たちの元々の本拠地はやはり都の京都でしたが、1593年豊臣秀吉が声聞師狩りを行ない、彼らを尾張に連れて行って強制労働をさせました。彼らは秀吉が死んで徳川の世になっても一部は京都に戻りましたが、多くはその地に留まり、または尾張から先の三河まで流れていきました。そして彼らが尾張萬歳・三河萬歳の祖となったのです。
萬歳は一般にその出身地で冠して呼ばれ、これらのほかに大和萬歳・加賀萬歳・会津萬歳・秋田萬歳・野大坪萬歳(福井県武生市付近)・伊予萬歳などが勢力を持っていました。とくに徳川家に保護された三河萬歳、京都の御所のひいきを受けた大和萬歳などは有名でした。彼ら萬歳師は全国陰陽師支配の土御門(つちみかど)家の免状をもって全国を旅していました。
しかしこの萬歳の本流は明治以降は衰退し、三河萬歳・知多萬歳・伊予萬歳などが新しい娯楽の要素を導入してかろうじて命脈を保っているにすぎません。
この萬歳から漫才を作ったのは玉子家円辰です。彼は元々河内音頭の音頭取りで、大阪で興行をしていましたが、音頭だけでは飽きられると考え、音頭の間に萬歳(三曲萬歳・御殿萬歳)をやるということを始め、明治38年「名古屋万歳」の看板を上げました。
彼は非常に吸収欲に富んだ人で、とにかく流行るものは何でも芸の中に取り入れていったとされます。その中でも現在の漫才に通じる重要なファクターになったのは「軽口」ですが、他にも民謡・浪花節など色々な芸の要素が投入されていきました。
円辰の芸は「万歳」と称していたわけですが、この芸が段々とはやっていき、やがて昭和5年、吉本興業と松竹が万歳合戦をやるまでになりました。このとき、吉本興業宣伝部長・橋本鉄彦氏が「漫才」という字を使用し、以後「漫才」が定着していきます。
そしてこの漫才も初期の頃は軽妙なしゃべりの掛け合いで笑いを取っていたのですが、戦後は派手なアクションを取り入れたえんたつ・あちゃこ等の「どつき漫才」が登場し、やがてコント55号などの先駆者を経て、ツービート・B&Bなどが「MANZAI」という方向性を確立、これがもっと進化して、とんねるず・ダウンタウンなどの世代からは「コント」という呼び方が定着してきました。
(正確には、ストーリーがあってミニ演劇ともいうべきものがコント、フリートーク的なものが漫才である。両者は多分1990年代頃に明確に方向性が別れてきた)
さて、もともとの萬歳ですが、基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)という二人組で行います。太夫は紋服姿に風折烏帽子で扇を持ち、才蔵はたっつけ姿に待烏帽子又は大黒頭巾で鼓を持ちます。才蔵が鼓を打って太夫が舞を舞い、二人で祝言を述べ滑稽な問答をして米銭をもらいます。
江戸時代には三河萬歳の太夫が才蔵をスカウトする「才蔵市」というものが日本橋で行われていました。