8月16日は静岡県三島市の三嶋大社で例祭が行われます。これに合わせて三島市では三島祭が行われます。
ここ三島市の三島神社の御祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)と大山祇神(おおやまずみのかみ)。
三宅島に伝わる「三宅記」によれば、この神社の神・三嶋大明神は初め妃神の伊古奈姫神とともに三宅島に降臨。その後一緒に下田に移り、後に三嶋明神のみ現在地に移ったとされます。伊古奈姫神は現在、下田の白浜神社にお祀りされています。
「三島」は「御島」でもあり、そもそもは伊豆の火山群の噴火と造山を司る神だったのでしょう。この三島神が事代主神ではないかという説は管田正昭氏によれば明治時代の神道家・萩原正平から出ています。彼は伊豆諸島の民話を採取し、伊豆に事代主の子孫を名乗る人々がいることを発見、この説を政府に報告しました。事代主神はもともとは出雲の神ですが、国譲りの後、「いづも」から「いづ」へと移動してきたのではないか、という訳です。
一方の大山祇神は、そもそも瀬戸内海・大三島の大山祇神社の神様で、日本全国の山の総管理者ですが、平安時代の中頃、ここが伊豆国の総社とされた時に、大三島から勧請されてきて共に鎮座することになった模様です。神道集には、大山祇神が伊予国の長者の子として生まれ、色々な冒険の後に三島にたどりつく物語なども収録されています。
なお、大山祇神は古事記によればイザナギ・イザナミの間の子。大山祇神の子供には富士山の神様である木花咲夜姫(このはなさくやひめ)がおり、また孫には須佐之男神の妻である櫛名田姫(くしなだひめ)がいます。そばに富士山が控えている地故に、その父である大山祇神がここ三島に鎮座することは自然であると考えられたのでしょう。
源頼朝が平家打倒のため挙兵した際、この三島神社に戦勝祈願をしました。そこで、その願いが成就したことからその後鎌倉幕府は神領を寄進するなどこの神社を篤く支援。分社を鶴岡八幡宮に勧請したほか、毎年正月には将軍自ら参拝していました。その後も小田原北条氏や江戸幕府など、歴代の東国の支配者の保護を受けています。
なお、この神社の社家は物部一族の矢田部氏。瀬戸内海・大三島の大山祇神社の社家・越智氏とも同族関係にあるようです。