北野天満宮梅花祭(2.25)

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2月25日は菅原道真公の命日(903)。この日、公を祭る京都の北野天満宮では梅花祭が開かれ、野点などが行われます。(太宰府天満宮の方は飛梅講社大祭になっています)

菅原道真の生涯とその後の色々な事件に関してはこのコーナーで何度も触れていますので、ここでは太宰府天満宮に伝わる伝説上の菅公の生涯をなぞってみましょう。

菅公は古代の技術集団・土師一族の傍系で代々学問を持って朝廷に仕える菅原家に生まれました。5歳で和歌を詠み10歳で漢詩を書くなど、小さい頃からその天才ぶりを発揮。33歳で文書博士になり、宇多天皇の厚い信任を受けて55歳で右大臣にまで登り詰めました。

やがて宇多天皇は退位し、醍醐天皇の時代になりますと、醍醐天皇は最初菅公を遠ざけようとしましたが、宇多上皇が天皇を説得。天皇も菅公を重用することを約束しました。

しかしそれをねたんだ藤原時平は菅公に無実の罪を着せ、ついには太宰府に左遷させてしまうのです。

落胆した菅公ですが、それでも朝廷への忠誠と日本の国を思う心は変わりませんでした。太宰府に流されてからもしばしば菅公は天拝山に登り、頂上に立って国家安泰を祈願したのです。やがて菅公がそのまま太宰府で亡くなりますと、味酒安行がその御遺体を太宰府政庁の東北の地に埋葬。ここに小さな廟を建てました。これが現在の太宰府天満宮です。

史実では実際醍醐天皇と藤原時平が手を組んで道真を陥れていますし、醍醐天皇は宇多上皇の言うことなど聞いていません。しかし太宰府に伝わる伝説では天皇を悪くいうのを避けて、時平ひとりを悪者にしています。また、天拝山のふもとには道真公がお参りしていたと伝わる小さな滝(というよりほとんど段差)があり、小さな祠が建っていますが、道真公は頂上までは登っていないかも知れません。


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