七夕神社(小郡)

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小郡市の七夕神社に行って来ました。

「小郡」といっても新幹線の駅のある小郡ではなく、福岡県の久留米市の隣の小郡市です。ちなみに新幹線の駅のある小郡は山口県小郡町です

【七夕神社(姫社神社)】

【老松神社(牽牛神社が合祀されている)】

宝満川をはさんで、西側に七夕神社、東側に老松神社があります。七夕神社のところの案内板によれば、七夕神社は正式には姫社(ひめこそ)神社といい、御祭神は姫社神と織姫神とのこと。風土記にも記述が見えるそうです。川をはさんで織姫を祭る神社と牽牛を祭る神社があって、昔はその間で御輿が往復したりしたのかも知れないですね。

七夕神社は社殿左側に摂社がありました。御神名は書かれていません。中を見ると男女の神像が収められていました。しかし七夕神社の案内板によれば、このほかに、七夕神社に男神の像、老松神社に女神の像があって対をなしているそうです。

老松神社は社殿裏側に摂社がありました。こちらも御神名は書かれていません。中には七福神像のような可愛い像が3つ収められていました。いちばん右側は大黒様の像に見えます。

なお、七夕神社という名前の神社はここと、あとひとつ宮城県にあるそうです。

今日は朝早く行ったつもりだったのですが、もう汗だくです。用意していた500ccのペットボトルのお茶を七夕神社についたところで半分のみ、小郡駅に戻ってきたところで残り半分のんでしまいました。

事前に調べていた資料では牽牛神社は七夕神社に合祀されているとあったのですが現地に行ってみると対岸の老松神社ということが分かり、参った!と思いました。持参した地図には対岸に神社が見あたらないので、とにかく行くだけ行ってみようと橋を渡ったのですが、幸い通りかかったご年輩の方に尋ねましたら、道を教えていただきました。感謝です!! 自分ではちょっと見つけられなかったろうと思います。神社センサーを持っている人が羨ましい。


【簡単な道案内】

★七夕神社
西鉄小郡駅(福岡駅から急行で約30分)を出て、駅前広場を左へ。2つ目の交差点(福岡シティ銀行の先)で左手の踏切を渡る。5分ほど歩くと大きな道と交差する。そこを曲がらず(*1)まっすぐ行くと道は自然に右手にカーブして、七夕通りに出る。出たところで左手に「咲くら」という和風レストラン?がある。その直前、咲くらの向かい側には牛嶋産婦人科という可愛い煉瓦風の建物がある。

道はこの七夕通りと斜めに交差して更に続く。そこから更に10分ほど歩けば、右手に見えてくる。甘木方面への迂回路になっているようで結構車の往来がある。この七夕神社がある地は大崎というところ。

(*1)右手に折れても良い。その場合その道を突き当たりまで行って左手に折れると、上記の道が七夕通りとちょうど交差したところに行き当たる。道はすぐ分かる。

【老松神社】
七夕神社の前の道をまっすぐ行くと稲吉橋で宝満川を渡る。そのまま進むと右手に北野衛生社というのがあり、小さな橋(古川橋)を渡る。この橋を渡ったところから左手に折れてまっすぐいけば目の前に見えてくる。



参考資料

【七夕神社の案内板の写し】
七夕神社は、正式には姫社神社といい、肥前風土記(730年頃)の中に記述があり、当時既に大崎のこの地に神社がまつられていたことがわかります。祭神は、神社縁起に姫社(ひめこそ)神と織姫神と記されています。

また、今から千年以上前の延喜式という書物には各地から朝廷に差し出す献上品の一覧表が残っています。それによると、小郡を含む筑後の国の献上品は米と織物になっており、この地方は織物がたいへん盛んであったことがうかがえます。また、古来織物に携わってきた人々は織物の神として「棚機津女」という機織りの女神を信仰していました。この棚機津女の信仰と中国より伝わった織姫・彦星の物語が混然同化して、織物の神をまつる棚機(七夕)神社として親しまれるようになったと思われます。

古老の話によれば、「この神社は『七夕さん』として親しまれ、八月六日の早朝から翌七日の朝にかけて、筑前、筑後、肥前一帯から技芸上達のお詣りで大崎に通じる道路は参詣者が列をなした。」と語っています。

また、宝満川を挟んでこの織姫をまつる七夕神社と相対して老松神社があり、ここに、大正十二年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。天の川と同じく南北に流れる宝満川とその両岸にまつられた織姫と牽牛(彦星)は、天上の物語を地上に配したようになっており、そこには昔の人々の信仰とロマンが感じられます。

平成五年十二月  七夕の里振興協会


【肥前風土記・基肆の郡・姫社の郷】
この郷の中に川がある。名を山道川という。その源は郡の北の山から出て、南に流れて御井の大川と出会っている。

昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、その卜占のしめすところでは「筑前の国宗像の郡の人珂是古にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられたら凶暴な心はおこすまい」とあった。そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、珂是古はやがて幡を手に捧げもって祈り、「まごころから私の祭祀を必要とされているのなら、この幡は風のまにまに飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」といい、そこでただちに幡を高くあげて風のまにまに放してやった。するとその幡は飛んでいき、御原の郡の姫社の杜に落ち、ふたたび飛んで還って来て、この山道川の付近の田の村に落ちた。珂是古はこれによっておのずから荒ぶる神のおいでになる場所を知った。その夜の夢に臥機(くつびき)と絡垜(たたり)が舞をしながら出てきて珂是古を押さえてうなされた。そこでまたこの荒ぶる神が女神であると知り、さっそく社を建てて祭った。それから後には路行く人も殺されなくなった。そういうわけで、姫社といい、いまは郷の名となった。

『風土記』(東洋文庫)

※基肆(この2文字で「き」と読む)の郡というのは現在の基山付近のようですが、ここで祭られた神社というのは現在鳥栖市の姫方町にある姫古督神社であろうとのことです。場所的にはこの七夕神社からちょうど西に3kmほど行った場所になるようです。そこの調査は宿題にしておきます。 (2001.07)


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