久邇宮家は伏見宮家の分家に当たります。この伏見宮家というのは、遙か昔、室町時代の初期に北朝の崇光天皇の皇子・栄仁親王が興こした古い家柄で、明治8年にこの伏見宮家の邦家親王の第四皇子・朝彦親王が久邇宮家を興しました。良子女王は、この久邇宮朝彦親王の孫にあたります。
朝彦親王は孝明天皇の信任が厚く、明治維新後は伊勢神宮の祭主を務めています。良子女王の父の邦彦王は陸軍で活躍し、日露戦争にも出征、最終的に大将まで務めたほか、世界各国を訪問して、親善に努力しています。良子女王の母の倶子(ちかこ)妃は旧薩摩藩主・島津忠義の七女で明治32年に結婚。3男3女をもうけました。
良子女王は兄2人・弟1人・妹2人という6人兄弟の3番目で長女。学習院の幼稚園で裕仁親王と出会い、当時から仲がよかったようです。つまりこのお二人は実は幼なじみでした。
その後、学習院の小学科・中等科と進みますが、大正7年1月の3学期初めから長期欠席。ご病気でもなさったかと学友が心配していた1月18日に、突如『東宮妃に久邇宮第一王女良子殿下、冊立御治定』の報が入りました。
結局、良子女王はこのまま中等科を中退。久邇宮で「お妃教育」が始まります。翌年6月には正式に婚約が発表。順調に行っていたかと思われた時に起きたのが『宮中某重大事件』でした。
事の発端は良子女王の兄の朝融王が健康診断の際に、王に軽度の色弱が認められると診断したことです。その診断をした医師が上司に相談したことから話が段々広がっていき、やがて政界に強力な影響力を持つ、元老・山県有朋の耳に入ってしまいました。
山県は長州藩の出身で、薩摩藩の血を引く良子女王が東宮妃に選ばれたことに不満を持っていました。そこで、これを見過ごすことのできない重大事として、徹底的な調査とその結果如何によっては婚約を取り消すよう要求しました。要するに、大事な天皇家の家系に色盲の遺伝子などが混入してもらっては困る、というのが表面上の理由です。
この騒動は国民に見えない所で、大正9年の秋頃から翌年春まで半年ほどに渡って天皇家周辺・久邇宮家・そして政界の多くの人々を巻き込み、激しい争いが行われました。この騒動で東宮御学問所の杉浦重剛が辞表提出、中村雄次郎宮内大臣も辞任に追い込まれています。山県も元老を辞任する意向を表明しましたが却下されました。
とにかく色々な人が色々な行動を取っており、実に訳の分からない事件なのですが、結論を見れば結局山県有朋は負けたのです。
久邇宮側は、恐縮して皇太子妃辞退もやむなしといった姿勢を見せていましたが、大正天皇がご病気(当時実際に天皇の実務を行っていたのは皇太子・裕仁親王)のため、皇室を代表する立場に立っていた貞明皇后は、いったん決めた皇室に関する決まり事を軽々しく変更してはならないと言明。辞任した杉浦らは「体質上の問題を取り上げて婚約を解消するとは差別的考え方であり、国民の代表たる皇室ともあろうものがする事ではない」と主張。
そして何よりも、当事者である皇太子・裕仁が『自分は良子以外とは結婚しない』と断言しました。
こうして、この事件は決着。婚儀は大正12年11月に決まりました。
しかしこれがまた更に延期せざるを得なくなります。それは大正12年9月に起きた関東大震災です。
この震災で東京は壊滅。皇居もかなりの被害が出ましたが、裕仁親王はとにかく集まれるだけの閣僚を緊急召集し、皇居の庭で会議を開いて、早急な復旧の対策を指示しました。その時親王の意向を受けて活躍したのは後藤新平です。
ともかくもこの騒ぎで、結婚式どころではなくなり、結局式が行われたのは翌年大正13年1月です。最初の結婚内定発表から実に丸6年が経過していました。
裕仁親王はこの後、後宮の大改革を行います。
それまでの後宮というのは、天皇の妻の予備という意味があり、未婚女性で構成され、全員がそこで生活していました。しかし裕仁親王は妻は良子妃ひとりだけであるとしてこの考え方を改革。女官は通いで務めるものとし、既婚女性でも構わないとしました。そして、古いしきたりの女官言葉を廃止。普通の現代語で会話するように定めました。
やがて大正天皇が崩御。裕仁親王は践祚して昭和天皇となり、良子妃が皇后となります。お二人の間には、最初内親王が4人続けて生まれます。すると当然皇子が必要であるとして、周辺には側室を置くことを求める声が起きますが、昭和天皇はそれを一蹴しました。
そして昭和8年にはやっと皇子が生まれ、国民は歓喜。このあと更に1男1女が生まれて、結局お二人の間には、7人のお子様ができたことになります。
照宮成子内親王・ 久宮祐子内親王・ 孝宮和子内親王・ 順宮厚子内親王・ 継宮明仁親王(今上陛下)・ 義宮正仁親王(常陸宮)・ 清宮貴子内親王特に、明仁親王以降は、皇后は前例を破って母乳で育てます。それまでは天皇の子供は乳母が授乳するというのが決まりでした。皇后ともあろう方が、直接乳を出すとはハシタナイ、ということなのでしょうが、昭和天皇と良子皇后は子供を育てるには親の愛情が大事であり、子供は手元で育てたいという方針を明確にしたのでした。
そしてこのあと、おふたりは更に激動の時代を過ごしていく訳ですが、それはまた別のストーリーとなるでしょう。