平治の乱に敗れた源氏は主な直系の武将がほぼ殺害されますが、平清盛は頼朝・義経・義仲ら数人に情けをかけて命を助けました。これが清盛死後、平家の命運を変えることになります。
義経は6歳頃まで母・常磐御前の許で暮らし、そのあと鞍馬山に預けられ僧としての修行をさせられながら源氏の残党の協力のもと武術の訓練に明け暮れていました。やがて元服した義経は奥州の藤原秀衡を訪ねて協力を求めることにし、旅に出ますが、その途中愛知県の矢作宿に立ち寄りました。ここには源氏のシンパである兼高長者がいて、義経を暖かく迎えてくれました。
兼高長者には浄瑠璃姫という十五になる娘がいました。この名前は、両親が薬師如来に祈願して授かった子であったため、薬師如来がおられるという東方浄瑠璃世界にちなんで名付けられたものです。義経が到着した夜、浄瑠璃姫が歓迎の意をこめて琴を弾くと義経が即興で笛を合わせました。これがきっかけで二人は愛し合うようになりますが、やがて別れの日が来ます。
義経もあまり長く同じ場所にいる訳にもいきませんでした。奥州への旅立ちを決意し、浄瑠璃姫に母の形見の『薄墨の笛』を預けて、きっと戻ってくるからと言い残して去って行きました。
奥州での絶望と出会い
しかしその後の義経の状況はとても浄瑠璃姫の所に戻れるような状況ではありませんでした。無事に兄・頼朝とともに平家を倒すも、今度はその兄から追われる身になって吉野・安宅と逃げ回り、再び奥州藤原を頼って落ち延びていきました。その知らせを聞いた浄瑠璃姫は居ても立ってもいられなくなり、親の止めるのも聞かずにわずかな供を従えて自ら奥州への旅を敢行します。
しかし彼女が奥州・平泉に着いた時、彼女の耳に入ったのは、義経が藤原秀衡の息子たちの裏切りにより討たれてしまったという知らせでした。そしてその藤原三兄弟も頼朝によって倒され奥州藤原家も滅亡していました。絶望に襲われた彼女はもう故郷へ戻る力もなく、その地に庵を結び、尼になって余生を過ごそうと考えました。しかしそこに密かな情報をもたらした人がいました。
その情報は義経が実は密かにさらに北へと落ち延びたかも知れないという話でした。一縷の望みをつないだ姫は更に北へと旅を続けることにします。旅は辛く厳しいものでしたし、どこで聞いても義経の行方を知っている人はいませんでした。しかしその旅はやがてむくわれます。陸奥の国の八戸で浄瑠璃姫は義経と感動的な再会を果たすのです。
二人は再会を喜び、浄瑠璃姫のために岩木山のふもとでしばらく休息したあと、一行はそのまま津軽海峡を渡り、蝦夷地へと渡っていきました。その後の二人の消息は誰も知りませんが、蝦夷地から更に中国大陸に渡って、チンギスハン(ジンギスカン)になったという説もあります。
人形浄瑠璃について
さて、現代「浄瑠璃」という名前を聞くと誰もが『文楽』の別名もある古典的な人形劇・人形浄瑠璃を連想すると思います。これは実はこの浄瑠璃姫の物語が人形劇で取り上げられ、それが大ヒットしたため、この分野の芸能を浄瑠璃というようになったのです。「文楽」というのは、人形浄瑠璃を行う劇団の中で最後まで残った劇団の名前です。なお、人形浄瑠璃の浄瑠璃姫物語では、姫は平泉までたどりつけずに途中で亡くなったことになっています。
薄墨の笛の行方
この『薄墨の笛』といわれる笛が愛知県岡崎市の誓願寺に保管されています。しかし、この笛がここにあるというのはちょっと変です。浄瑠璃姫が奥州への旅に出たのであれば当然この義経ゆかりの笛は持っていったはずです。こんな大事なものを実家に残していくというのは考えられません。そうなると、姫が奥州へ行く途中で亡くなったのなら笛は亡くなった地に残されそうですし、本当に生き延びた義経と再会して蝦夷地まで行ったのなら、北海道以北で見つからないといけません。可能性としては、姫が奥州路で亡くなったあと供の者が持ち帰ったという考え方と、もうひとつは実際には姫は旅に出なかったという可能性です。誓願寺の笛が本物ならどちらかというと後者の方が可能性が高いように思います。