明治8年(1875)12月16日に東京王子の「抄紙会社」の工場の開業式が行われたのを記念するものです。この会社は渋沢栄一(澁澤榮一)が発議し、三井組・小野組・島田組らが発願して明治5年11月に設立、翌年2月に大蔵省紙幣寮の認可を得て「抄紙会社」と命名されました。王子の工場にはイギリス製の機械が導入され、イギリス人技師の指導のもと明治7年夏頃から試験生産が始まりますが、最初の頃はなかなかうまく動かず、まともな紙ができるまでに3ヶ月ほどかかって、12月になってやっと「開業式」にこぎ着けました。
渋沢は日本の文明水準の向上には本の普及が必要であると考え、そのためには出版事業を興す必要があり、そのためには西洋式の印刷機に使用できる「洋紙」の生産が必要であると考え、製紙産業の隆興が必要であると考えました。
王子の地が選ばれたのは、川のそばで紙の生産に必要な水が得られるとともに原料や製品の運搬に便利であること、また当時は洋紙の原料はボロ布だったので、大都会・東京のそばで原材料が大量に得やすかったことです。木材パルプを製紙原料に使い始めるのは1899年からです。
この「抄紙会社」は現在の王子製紙・日本製紙のルーツです。
ただ、日本で最初に洋紙の生産を始めたのは実はこの会社ではなく1874年6月に営業開始した有恒社です。歴史的に見ると、抄紙会社が1893年に王子製紙と改称、1924年に有恒社と北海工業を吸収、更に1933年には富士製紙,九州製紙を吸収していますので両者は結果的には合流していることになります。
しかし「紙の日」として有恒社の方ではなく、少し遅れた抄紙会社の営業開始日が選ばれているのは、やはり抄紙会社の方がこの会社の源流と考えられたからでしょう。
なお、王子製紙は戦後巨大すぎるとして解体され、苫小牧製紙,本州製紙,十條製紙に分割されました。この内の十條製紙は1993年に山陽国策バルブと合併して日本製紙となり、2003年には更に大昭和製紙と合併しています。なお、この持株会社の名前は日本ユニパック(unipac)といいますがコンピュータのユニバック(univac)とは無関係です。
苫小牧製紙は1952年に王子製紙と改称。その後、北日本製紙、日本パルプ工業、東洋パルプを吸収、1993年に神崎製紙と合併して新王子製紙になりますが、1996年に本州製紙と再合併して王子製紙の名前に戻ります。「王子製紙」の名前は2度消えて2度復活しているので、不死鳥のようだとも言われています。
現在、日本の製紙業界は、王子製紙・日本製紙・三菱製紙+中越バルブ、の3社がトップグループを形成し、そのあとを大王製紙・北越製紙・レンゴーの3社が追いかける展開となっています。
なおティッシュペーパーの有名ブランドは下記の会社が製造しています。・エリエール 大王製紙が1979年に開発。ソフトティッシューの草分け。・スコッティ 山陽バルブとスコットの合弁・山陽スコットが1963発売。山陽バルブはその後日本製紙に、山陽スコットはクレシアと改名・クリネックス 十條製紙とキンバリー・クラークの合弁・十條キンバリーから1963発売。十條製紙は後に日本製紙。十條キンバリーはクレシアと合併。・ネピア 王子製紙が1971年に王子ティシュを設立して販売開始。・ホクシー 元々北海製紙の製品。北海製紙を略して北紙でそれをカタカナでホクシーと呼んだもの。北海製紙は後に王子製紙に吸収されますが、戦後の王子製紙解体では本州製紙の系列となりその子会社の北海製紙という形になりますが、本州製紙の王子製紙への合流で王子ティッシュと合併しています。・エルモア 四国のカミ商事の商品