11月12日は洋服の日です。明治5年(1872)のこの日、「礼服は洋服を採用す」という太政官布告が出されて、裃(かみしも)や束帯(そくたい)などの和式の礼服が廃止され、洋服の使用が促進されました。これを記念して、全日本洋服協同組合連合会が百周年に当たる1972年に制定したものです。
衣服の歴史は人類の歴史とともに始まります。初期の頃の服というのは単純で、おそらくは腰の周りに動物の皮や木の葉などを巻き付け、端を折り込んで留めていたのではないかと思われます。
そして、人類の知能が発達してくると、つるや植物の茎などを「編む」ことが発見され、その内、頭のいい人が茎などをそのまま編むのではなく、いったん、わざわざ細く裂いてから編むと、より柔らかいものが編み上がることに気づきます。最初の頃はきっと、これを思いついた人は「なにを、時間のかかることをやってる?」と先輩たちに叱られていたかも知れません。
この技術がやがて「布」として定着しだすと、いわゆる腰布型の服(ロインクロス,loin-cross)が発生したものと思われます。エジプトの古い絵画などに、ロインクロスを腰に付け、首や腕に金の飾りを付けた王の姿などが描かれています。
布はやがて腰を覆うだけでなく、肩にも掛けて上半身も覆うのにも使われるようになります。肩掛け(ケープ,cape)の発生です。これは恐らくは北方の寒い地方に住む人々が発明したものでしょう。
腰布については、初期の折り込んで留めるタイプから、やがて紐を付けて、結んで留めるタイプや、端を縫い合わせて円筒状にしたスカート型のものが出てきます。このスカートの発明はエジプト人によるものと言われています。
一方、別の地区では、ひじょうにながい布を作って、肩から回して体全体を覆うタイプも発生します。現在のインドのサリーのようなものです。
そして、恐らく今から3000〜4000年くらい前に、どこかの国で、布の真ん中に穴をあけて、上からかぶって体全体を覆うタイプの衣服が発明されました。貫頭衣のようなもので、この流れに属するものは現在はローブとして女性の礼服に使用されています。
基本的に衣服の発達は北方型と南方型があり、また西洋型と東洋型があるとされます。北方では主として防寒の用途が重視され、すきまができないように、体の線に合わせた、曲線的・立体的で活動的な服が発達しました。逆に南方ではむしろ装飾的な方面が重視され、直線的・平面的で飾りの多い服が発達しました。
また西洋では狩猟文化の影響で、素材的に皮革が多用され、乗馬したり走ったりするのに便利なズボン型の衣服が発達し、東洋では農耕文化の影響で、素材的に植物繊維が多用され、湿度が高いときでも風通しがよくて着やすいスカート型の衣服が発達しています。
現代ではこれら東西南北いろいろな要素の服がミックスされ、世界標準としての「洋服」の文化がある一方で、日本の着物のように、各国それぞれの伝統の衣服が使用されています。
現在の洋服の原型を作ったのは、だいたい14〜18世紀くらいのヨーロッパの宮廷文化です。宮廷に仕える男性たちがまず自分たちの着る服を、仕立ての上手な人に作らせるようになり、テーラーという職業が生まれます。ついで女性たちもそれに習って、専門の職人を使うようになり、ドレスメーカーという職業が生まれました。初期の頃はテーラーとドレスメーカーの技術の差はかなりのものであったようですが、中期以降はむしろドレスメーカーの技術の方がどんどん高度になっていきます。
18世紀は女性の服がもっとも装飾的になった時代で、貴婦人たちはフープの入った、大きく裾の広がったスカートを履いて、宮殿を闊歩していました。
しかし19世紀後半になると、活動的な女性たちがそれまでの装飾的な服を捨て、もっと動きやすい服を選択し始めます。スポーツ大会が開かれるようになり、運動に適した服が着られ、馬や自転車に乗る女性のための服が作られました。この時代に男子服でも背広が誕生してします。明治の文明開化を体験した人々が見たのは、この時代の西洋の服でした。
なお、明治5年のこの太政官布告の背景には、実は、わずか15歳で即位した明治天皇が、まだ若すぎて和服が似合わなかったため、洋服の方がまだ格好がつくということから、出されたものである、という俗説があります。