11月6日はお見合い記念日です。これは1947年のこの日、結婚紹介雑誌「希望」が主催するお見合いパーティーが東京の多摩川河畔で開かれたのが、戦後最初の大々的なお見合いパーティーであろうということで、それにちなんで設けられたものです。(誰が制定したのか不明です。済みません)
この時期は戦争直後の混乱で従来の結婚相手探しのシステムが崩壊していた上に、戦争で婚期を逃した人も多く、このパーティーには、20歳から最高で50歳までの男女386人が参加したとのことです。
お見合いという制度はおそらく人類の歴史の始まりの頃から存在したものだとは思われますが、時代や地域により、その手法や捉えられ方も微妙に違っています。
お見合いは基本的に大別して、それで同意すれば結婚を前提とした、あるいは結婚することを視野に入れたお付き合いを始めるというパターンと、それで同意すれば即結婚生活が始まるというパターンとがあります。
歴史的・地域的に見れば、後者がほとんどです。
日本でも戦前の田舎では、お見合いというのは事実上の仮祝言であり、女性がそれを断って戻ってくると「出戻り」に準じて扱われていました。しかし江戸時代の江戸や大坂では純粋に男女を引き合わせるだけのお見合いも行われていたようです。この場合、仲人役の人が合いそうな男女に声を掛けて、寺社の境内の水茶屋や芝居小屋などで会わせて、しばらく歓談などさせ、お互い気に入れば即祝言の日取りを決めるものの、合わないようだったらそのままさよならということであったようです。
おそらくは、人数が少なく結婚相手になるような相手がそう多くない地域でのシステムと、相手になりうる人が多すぎて、候補者をそもそも絞りきれないような地域でのシステムとの差なのでしょう。人数が少ない場合、1度断った場合に次の候補者を見つけにくいですが、人が多い所ではいくらでも候補者がいることになります。現代日本では交通と通信のシステムの発達のおかげで、遠距離恋愛のような、かつては考えられなかったような恋愛でも維持可能になっており、そういう今の時代の感覚からすると逆に戦前の田舎のお見合いなどは「そんな信じられない」と思うようなシステムになってしまいました。
平安時代の貴族の間で行われていた「妻問い」は戦前の田舎のお見合いのシステムと似ています。戦前の田舎のお見合いシステムでは、女性が男性宅を訪問しますが、妻問いの場合は男性が女性宅を訪問するパターンです。基本的には双方の家で話を付けた上で、男性が女性の元に3日連続で通ってくれば(あるいは3日間泊まり続ければ)、婚姻成立とみなして祝宴に移ることになります。
妻問いは「夜這い」を制度化したものともいえます。夜這いも、本人たちあるいは親同士の合意または暗黙の了解があった上で、どちらかがどちらかの家に通っていき、それが連続して行われる状態になると、結果的に「通い婚」状態になります。(夜這いは男性が女性宅を訪問する場合も、女性が男性宅を訪問する場合もあります)
夜這いを断る場合、通う側は自主的に行かなければ良い訳ですが、通って来られる側は戸を閉じて入れないようにするか、どこかに逃げ出してしまうかということになります。1度それで断られたらしつこくしないのがマナー。それでも諦めきれないという場合はお手紙でも書いて懐柔を試みて再同意を得ないと通うことはできません。あまり無理なことをした場合は、村八分などにされるケースもあったそうです。
なお通われる側(多くは女性)から断るのは、やはりなかなか言いにくい面もあるため、後年、「断り方」はかなり定式化していき、女性側がこのような動作をしたら、それはお断りの意味だから男性側は諦めろ、ということになっていきます。男性が女性宅を訪問する時に、贈物としてお酒を持っていき、受け入れる場合は空の瓶を返し、断る場合はそのまま返す、などという地方もあるそうですが、現代の京都ではお見合いで最後に女性が麺類を食べたら、お断りの意味というのもあるそうです。
江戸時代の江戸・大坂では、結婚相談業を営むものもあったようです。最初は世話好きのおばさんが好意で引き合わせしていたのが、次第に職業として定着していったのでしょう。近代的な結婚相談所の最初は1880年に、山口吉兵衛が大阪で始めた「高砂屋」(正式名:養子女婿嫁妻妾縁組中媒取扱所)であったようです(妾まで入っているのが凄い!)。戦後になると、急速に発達する都市の中で、結婚相手を見つけきれない人が増えたため多数の結婚相談所が活動し始めますが、その中で1970年代になるとコンピュータで合いそうな人を見つけ出すタイプの大手結婚相談業者が活動し始めました。更には1990年代になると、多くの業者が「お見合いパーティー」の主催をしはじめ(この分野は異業種からの参入も多い)、また新たな切り口のお見合いのシステムが生まれています。
一方で、お見合いと常に比較されるのが「恋愛結婚」なのですが、もともと昔の「夜這い」というのは、恋愛のある段階より先の状態だったわけで、現代日本ですっかり、恋人になればセックスしてよいという風潮が定着しているのも、ある意味では古代回帰のような感もあります。(実際には明治から戦前にかけての時代が少し変だったのだと思いますが)
戦後の新しい、結婚と切り離された形での「お見合い」が最も盛んに行われたのは昭和20〜30年代と思われます。しかしお見合いによらず恋愛する人たちは昭和20年代から盛んにしていた訳で、特に昭和40年代くらいになると、ウーマンリブ・フリーセックス・ポルノ解禁・反戦運動・ヒッピー、などなどの強烈な解放思想の影響で、自由恋愛で結婚する人の比率がかなり高くなっていきました。そこで一時期「お見合い結婚と恋愛結婚はどちらがよいのか」などという論争まで起きるに至ります。確かに当時の保守的な人たちの中には「恋愛結婚なんて、はしたない」という思想の人たちが、かなりいたようです。
しかしそういう人たちもだいたい1970年代半ば頃までにはほぼ絶滅し、自由思想の中で育った昭和30年代生まれの人たちが成人しはじめると、結婚は恋愛を経て成立するもの、というのが基本的なルールとして定着して、逆に「お見合い」してそのまま結婚する方が野蛮であり、「お見合い」はあくまで交際を始めるきっかけと捉えるべきという考え方が一般化します。結果的には婚約状態と恋愛状態の差がほとんどなくなったともいえます。
それと同時に、新しい形でのお見合いも生まれてきています。以前のお見合いは話を決めているのは年長者だったのですが、友達同士で「いい人いたら紹介してよ」と話を持ちかけたり、また逆に「あの子とあの子合いそうだから一度会わせてみようよ」などということが行われたりという、同世代の人が紹介する「お見合い」も盛んに行われるようになっています。同世代の感覚で見る分、精度の良いものになっている可能性があります。このようなお見合いが成立するようになったのは、恋愛感覚抜きで男女が自然に友人として交流することが可能な、時代背景があるからとも考えられます。
また自主的な小型お見合いパーティーともいうべき「合コン」も1990年代頃以降、良く行われるようになってきました。合コンでは人数が少ないだけあって、一番人気の人には交際希望が集中しがちです。そこで「2番目を狙え」などという話も出てきていたりしています。
またここ3〜4年、地方の自治体や放送局など、公的な団体が主催した「婚活パーティー」が盛んに開かれるようになってきました。最近の出生率の異様な低下が背景にあり、地方に若い人を居着かせようというのがあるのだと思います。
(2005-11-06 04:52)(2013-01-01 加筆)