11月21日は歌舞伎の日です。これは明治22年(1889)の11月21日に東京木挽町に歌舞伎座がオープンしたことを記念するものです。
歌舞伎を始めたのは江戸初期の「出雲の阿国(おくに)」です。彼女は元々は鍛冶屋の娘(能楽師あるいは狂言師の娘という説も)で、出雲大社の巫女になって念仏踊りを踊っていましたが、豊臣秀吉の御伽衆の紹介により京都の四条河原(北野天満宮境内の説も)で念仏踊りの興行を実施。人気を博しました。
これに刺激を受けたのが四条河原町付近にある多数の遊郭です。遊郭が競って遊女達に男装させて阿国の一座に類似した踊りを踊らせ、これを遊郭の客引きに使用しました。これを『女歌舞伎』といいます。
しかしこれは風紀上問題があるとしてすぐに禁止されます。すると今度は女がだめなら男がいるさ、という訳で、元服前の美少年たちを動員した『若衆歌舞伎』がやはり同様に客引きをかねて実施されました。するとこれもたちまち禁止されました。
しかし怪しげな興行の禁止は仕方ないとしても、この手の芸能を見たい人達のニーズはあります。そこで生まれたのが、普通に男性の役者だけを使って演じる『野郎歌舞伎』でした。これが現在の歌舞伎のルーツです。
やがてこの京の歌舞伎に刺激されて江戸にも歌舞伎を演じる劇場が生まれます。その中でも正式に官許をもらって営業していたのが次の4座でした。
中村座(猿若座) 初代中村(猿若)勘三郎が寛永元年(1624)に中橋で開業。
市村座(村山座) 村山又三郎が寛永11年(1634)に宜町近くで開業。
森田座 森田太郎兵衛(初代森田勘弥の養父)が万治3年(1660)木挽町で開業。山村座 山村長太夫が木挽町で開業。森田座と山村座は向かい合わせで営業していました。現在の歌舞伎座は実はこの森田座の跡に近い場所に建っています。なお、森田座を初代森田勘弥の創始と書いている文献もあるのですが、実際は森田勘弥は森田太郎兵衛の養子になって跡を継いだもののようです。この初代勘弥は初代坂東又九郎の実子で、守田と板東というのは創始以来の深い関わりにあります。
(この付近の歌舞伎役者の系列の話はまたいづれどこかで。なお森田勘弥は11代目から守田の字を使用している)
山村座は絵島生島事件で官許を取り消され廃業しました。また森田座の方は天保13年(1842)に天保の改革により猿若町へ移転を命じられました。
やがて明治維新が起きて、世の中は全て西洋式が良くて日本式は価値がないようにいわれていた時代、その世相の中で西洋的な合理思想を背景にして、この伝統演芸を再生しようとした人がいました。それが新聞社の経営者であった福地源一郎(1840-1906)で、彼はその新思想にもとづく演芸を上演するための新しい劇場を建設しようと考えました。彼はその劇場を建てる場所として歌舞伎にゆかりの深い木挽町を選び、名前も「歌舞伎座」にしたのです。
この歌舞伎座のこけら落としには当時のトップスターである9代目市川團十郎・5代目尾上菊五郎・初代市川左團次がそろいました。題目は河竹黙阿弥の「俗説美談黄門記」と大切所作事「六歌仙」でした。
福地源一郎が亡くなった後は劇場は松竹に接近、やがては経営権を移すことになり、大正3年以降は松竹が全面的に歌舞伎座を運営していくことになります。劇場はなんどかの改修を経たのですが、大正10年火災で焼失。再建途中に今度は関東大震災に見舞われ、再度作り直し。大正13年12月にやっと完成し、翌年新春から興行が再開されました。
しかしその劇場も昭和20年東京大空襲で焼失。これが再建されたのは昭和25年12月。興行が再開されるのは昭和26年1月3日になります。こけら落としは『二条城の清正』『籠釣瓶』などでした。