毎月23日は「ふみ(文)の日」ですが、特に11月23日は「いいふみ(良い文)の日」になっています。
「ふみの日」は郵政省(現郵政公社)が1979年に定めたもので「手紙の楽しさ、手紙を受け取るうれしさ」を通じ、文学文化を継承する一助となるようにとの趣旨のものです。文月23日ということで7月23日も重視されています。
1979年当時は電話がようやく国民一般に行き渡ってきた頃で、コミュニケーションの主役が手紙から電話に移ろうとしていた時期。それに対する危機感もあったのでしょう。それが15年後には今度は電子メールへと移っていくことを誰が想像したでしょうか。その通信関係の企業を統括していたのも郵政省でしたが、20年前に郵便局が民営化されていたら、今はNTTグループに拮抗する、巨大な通信会社になっていたかも知れません。
(NTT<電電公社も郵政公社も、元をただせば逓信省で戦後分割されたもの)
現在手紙といえばほとんどがビジネスレターと年賀状・暑中見舞などの儀礼的なものになってしまいました。知人に用事があれば、だいたい電話するかメールするか。手紙で送らなければならないのは、概してかなり角の立つ用件です。ラブレターも紙に書いて渡すというのは中学生の最初の告白の時だけ、という感じで、親しくなってしまえば電話か携帯メールというのが普通になってしまいました。郵便受けに入っているのは、チラシ・広告・DM・通販カタログ・請求書、あるいは封筒に入る程度の品物が送られてたケースです。
しかし昔は遠くに住む人とのコミュニケーションは手紙以外の手段がありませんでした。どこの国でもある程度政治的に落ち着いた地区では、駅の制度を作り、リレー方式で手紙が送られるシステムを確立していました。江戸時代の日本でも宿場ごとにそういう拠点が作られ、特に急がない手紙は飛脚が馬に多数の郵便物を積んで引いて次の宿場まで歩いて運んでいました。
なお、いわゆる「飛脚」のイメージにある、文箱をくくった棒を持ち走っていくようなものは、特別料金を払った「速達」です。更に急ぐものは早馬を仕立てていました。この場合、駅ごとに馬を替えてリレーするので、今ならバイクで運ぶくらいの速度で手紙を運んでいたようです。「忠臣蔵事件」では江戸から赤穂まで、主君切腹の報せが届くのに4日もかかっていますが、これは生類哀みの令のおかげで早馬が使えなかったためだそうです。ほんとにあの時代に外国が攻めて来なくて良かったです。