ドラフト記念日(11.17)

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1965年(昭和40年)11月17日、日本のプロ野球で、初めてのドラフト会議が開かれました。

このようなものが創立されたのは、それ以前選手の獲得は完全な自由競争であったため、大量の札束を抱えて有望選手の自宅を訪問し、親の頬を現ナマでなでるような真似をして半ば強引に契約を結んでしまうようなスカウトが横行しており、健全なスポーツとしての発展に弊害があると考えられたためです。

元々ドラフトというのは1935年にアメリカのフットボールリーグで創設されたのが最初です。当時フットボール界では人気チームに入団希望選手が集中し、弱いチームにはあまり人が集まらないという現象が起き、人気チームはますます強くなり、弱いチームはますます弱くなるという状態になりつつありました。これでは単に強いチームが勝つだけという話になり、スポーツとしての魅力が薄れてしまい、将来的にはファンも離れてしまうという危惧が出ていました。そのため、このアメリカン・フットボールのドラフトでは、単純に前年の最下位の球団から順に希望選手を提出していくといういわゆるウェーバー方式で指名が行われました。

この方式が最も理想的な方法であるということは多くの人が主張する所です。

しかし1965年の第一回ドラフト会議はドラフト制度に最後まで反対していた巨人と阪神に配慮して、理想とはほど遠い方式で行われました。

各球団は指名希望選手30名以内の名簿(優先順位付き)を提出。同じ優先度で競合した場合は抽選が行われるということになりました。この第一回のドラフト会議の目玉は堀内恒夫だったのですが、彼を抽選で引き当てたのは何と巨人でした。そして「戦力の均衡化」という理想に反して巨人は1965年から9年連続の日本一に輝くのです。

ドラフト会議はリーグ全体の発展のために有望選手を分散させて各チームに入団させるためのものです。しかしこの会議があることで、経営に不熱心な球団はあまり努力をせずにクジ運だけに頼って有望選手を得ようとする弊害も出てきました。そのため本人が事前に「どこどこ以外は行かない」と明言しているにも関わらず強行指名して結果的に拒否されるという事態も多発しています。制度発足以来の指名された選手の入団拒否率は平均すると20%にも及びます。

そのため1993年からは社会人・大学生に限って、選手の希望球団が調査され「逆指名」制度が導入されました。しかし逆指名を利用した球団が有利になりすぎるということで、今年からはこの制度は「自由獲得枠」という名称に改められ、これを2人使用した球団は1〜3位の指名から外され、1人使用した球団は1,3位の指名から外されることになりました。しかしこの制度は高校生には適用されていないため、今年2001年の目玉選手・寺原を獲得するには、自由獲得枠を一切使わないで1位のくじ引きに賭けるしかありません。

ドラフトで指名される人数は最初は30人まで、1967〜1973年は制限無しでしたが、さすがに下位の12位とか15位などで指名された選手はその評価を嫌がって入団しなかったため、1974年には6人までと制限されました(1978-1980は4人)。しかしドラフト外での自由獲得は残っていました。しかし1991年には枠を10人までに拡大するとともにドラフト外での入団を禁止し、1995年以降は枠は8人に縮小されています。

阪神の掛布雅之はテスト生でしたが、万一他の球団に目を付けられていた場合に備えてドラフトの下位6位で指名されています。実際にドラフト外で入団して活躍した選手には、巨人の西本聖、横浜の石井琢朗などがいます。鹿取義隆の場合は江川騒動の余波でドラフト外になってしまいました。他の球団が横取りも可能だったでしょうが、余計な混乱を恐れて遠慮してくれたのでしょう。

その江川騒動は日本ドラフト制度史上最大の事件でした。

作新学院の江川卓は1973年の阪急(現オリックス。当時はとても弱かった)の指名を蹴って法政大学二部に進学しました。4年後彼を指名したのはクラウンライター(現西武。とても弱かった上に経営母体が不安定だった)ですが、彼はこれも拒否し、社会人に行くと2年間指名を受けられないため、船田中代議士の口利きによって作新学院の職員となり個人的に雇った元プロ野球選手にコーチを依頼して1年間トレーニングを続け、1978年のドラフトを待ちました。

ところが1978年のドラフト前日11月21日、巨人はドラフト会議に関する規約を強引に曲解し「ドラフト指名選手との交渉権はドラフト会議の前日で切れることになっているから、その日は球団はドラフトに拘束されずに任意の選手と契約可能である」という『空白の一日』説をぶちあげて強引に江川の入団発表を強行しました。

しかしリーグは当然ながら、このような無茶苦茶な論理は退け、江川の入団の届け出を拒否。すると巨人は「重大な決意をもってドラフト会議を欠席する」と通告。マスコミは、巨人は、ライオンズを買収して誕生したばかりの西武を誘って新リーグを設立するのではないか。その場合他にも2〜3の球団が追随して、球界再編になるのではと大騒動をしました。そしてドラフト会議では阪神が江川を指名しました。

この問題に関して金子鋭コミッショナーは「江川君は阪神に入団して巨人にトレードで移籍するように」という裁定を下し、秋期キャンプのため宮崎に行く途中であった小林繁投手(当時の巨人のエース)が急遽呼び戻され、江川との交換トレードで阪神に行ってくれるよう巨人は要請しました。

このコミッショナーの裁定には本来の巨人ファンを含めて多くの人々から批判が集まり、金子コミッショナーは辞任。江川については開幕から2ヶ月間の出場停止の処分が取られました。もちろん小林に関しては被害者とみなされ何の処分も行われていません。

この時期、巨人の親会社である読売新聞はただ一社、一貫して巨人擁護の記事を書き続け、ファンおよび購読者の離反を招くことになります。私も基本的には巨人ファンなのですが、この時はほんとうにもう読売取るのをやめようかと思いました。

この江川騒動の被害者は小林以外にも数人います。前述のように巨人にドラフト会議で指名されるはずだった鹿取ら数人は結局ドラフト外で巨人入団となりました。(鹿取はもともと社会人に進むつもりだったとの説も)小林が抜けて投の中心がいなくなってしまった巨人ではやむなく抑えのエースの新浦寿夫を急遽先発にコンバート。しかし性の合わない先発を任された新浦はこれで調子を崩してしまい、絶不調に陥ってしまいます。


(2001-11-17)

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