日本の公的な近代産業統計の始まりは明治3年9月24日に太政官布告により集計作業が開始された「府県物産表」と呼ばれるものです。この明治3年9月24日が太陽暦に換算すると同年10月18日になるため、この日を「統計の日」とすることが、1973年7月3日閣議により決定されました。
府県物産表は各府県ごとに米麦などの農産物、海産物や木材、鉱業生産物など29種類の産業製品について、その生産高を調査して集計したものです。このような表を作ることは国力の把握、そして産業育成政策の立案の基礎となるもので、国の統治をするのにとても基本的なことです。
江戸時代までは各藩の経済力を米の生産高で表し「○万石」という言い方をしていたわけですが、日本が近代国家に成長する過程においては米だけでなく、様々な生産物の調査が必要になったのでした。
統計の歴史はそのまま「まつりごと」の歴史とも言えるでしょう。日本書紀は第10代・崇神天皇を「初めて国を肇(しら)した天皇」と書いていますが、それはこの時代に初めて人口調査を行い、賦役の割当てを行ったからであるとしています。西洋でも人口調査はローマ帝国時代などにはかなり組織的に行われていたことが知られていますし、聖書の「民数記」などにも各氏族ごとに人口調査が行われたことが記されています。
もっとも近代以前の統計では、統計を正確に出すための技術的・政治的手法が不足していた面が多く、しばしば調査官は賄賂などで簡単に調査結果を改変していたようですし、日本でも古代の人口調査で異様に女性の比率が高い事などは昔の調査手法の限界を示す例でもあるのでしょう。
近代の統計調査が古代のものに比べて高い精度を持つようになったのは、調査が一般に国の普通の政治系統からは離れた機関によって行われるようになったことと匿名性の保証によって人々が正確な申告をしてくれるようになったこと、また調査に携わる人員を大量に確保し、きちんと教育して短期間に国の各地に送り出し調査させて戻ってこさせるだけの統制力と通信・交通手段が発達したことなどがあげられるでしょう。
また調査した数字をまとめるための統計学の理論も近代大きく発達し、統計分布、平均と標準偏差、などといった数理的な把握が容易になったことは国家規模の大きな統計の活用の幅も広げていきました。そしてその理論は逆にこのような大きな数の処理を迅速におこなうための技術の発展も促しました。
電子計算機のトップメーカーIBMもルーツをたどると19世紀の終わり頃にアメリカの中央統計局が国勢調査の結果をまとめるための機械を募ったのに発明家の創業者が、それまで編み機の図柄制御に使用されていたパンチカードを数理処理に使うことを思いついて自動計算機械を製作し応募して採用されたのが発端です。世界で最初にこのような技法を発達させた国が今世界の支配者となっているのも、ある意味では当然でしょう。