1972年(昭和47)7月16日、大相撲七月場所(名古屋場所)で東前頭4枚目の高見山大五郎(高砂部屋,当時の本名Jesse James Walani Kuhaulua,現・東関親方,渡辺大五郎)が外国人力士として初めて幕内最高優勝を遂げました。高見山は翌場所、外国人力士として初の関脇の地位に昇進します。
一般に高見山(最高位関脇)がいたから小錦は大関になれた。そして小錦がいたから曙は横綱になれた、と言われます。相撲の世界は日本の中でも最も保守的な世界のひとつ。その中で様々な差別や偏見を打ち砕いて、こういった道筋を作っていった彼らは偉大であり、中でも最初にこの世界に入ってきた高見山は偉大です。
今でこそ巨体は有利と言われますが、当時は「高見山は背がある分、腰も高いからね」などといわれ、その体は不安定であるとみなされていました。言葉も不自由する中、親方も英語はよく分からないので最初の頃は何を尋ねても「Push Push」とばかり言われていたなどというエピソードを後に披露していました。
高見山は1944年6月16日マウイ島の生れ。アメフトのラインマンとして高校時代は活躍していましたが、事故にあってアメフトが出来なくなり、その後ハワイの相撲クラブに入って当地で相撲をやっていました。そこを巡業で訪れた高砂親方(元横綱前田山)に見い出され「5年は衣食住を保証するから」と熱心な勧誘を受けて来日を決意したものです。その高砂親方自身は高見山の優勝を見ることなく1971年に57歳の若さで死去しています。
高見山は通算出場で第三位(1位大潮・2位寺尾)、連続出場で第四位という記録を持っています。この「長持ち」した要因は意外にも相撲入り前に事故で痛めた下半身であるとも言われています。下半身に弱いものがあるため土俵際に押し込まれたり投げの打ち合いになった時にあまり無理することができず、結果的には、怪我をあまりせずに済んでいたというわけです。
先日の朝青龍と琴ノ若戦の「驚異のブリッジ」などは朝青龍の粘りを褒める向きもありますが、もし琴ノ若があそこで手を付いてあげていなくてそのまま朝青龍の上に崩れ落ちていたら、と考えるとぞっとするものがあります。頑張りと危険行為は紙一重です。