5月16日は「旅の日」です。これは1988年に日本旅のペンクラブが制定したもので、松尾芭蕉の「奥の細道」への旅立ちを記念するものです。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と言って松尾芭蕉が江戸を出発したのは元禄2年(1689)の3月27日でした。この日を新暦に換算しますとこの年は閏1月があったために2ヶ月もずれこんで5月16日になります。これを採用した訳です。
奥の細道の行程は江戸から奥州街道を北上、日光に寄ったあと那須・白河・二本松などを通って松島に出ます。「松島や、ああ松島や、松島や」
それから平泉まで北上して「夏草や、つわもの共が、夢の跡」とよんだあと裏日本へ回りますが、その途中寄り道して霊山・立石寺に寄ります。「閑かさや、岩にしみいる、蝉の声」。
出羽三山を経由して酒田に出たあといったん象潟まで北上、そこから南進に転じます。越後では「荒海や佐渡に横たふ天の川」。越中では「一つ家に遊女も寝たり萩と月」。加賀では「無惨やな、甲の下の、きりぎりす」。そして福井では永平寺に寄り、敦賀から種の浜まで行き、琵琶湖の東側大垣に到着します。最後の句は「蛤のふたみに分かれ行く秋ぞ」。
「奥の細道」が完成した年に芭蕉が亡くなっているので、時々、この「奥の細道」の旅の途中で芭蕉は亡くなったと思っている人がありますが、「奥の細道」の旅はきちんと目的地の大垣までたどりつき、芭蕉は江戸に戻って「幻住庵記」や「猿蓑」を書いています。「奥の細道」はこの東北・北陸の旅のあと5年がかりで旅を再構成して作られたものです。
つまり「奥の細道」はあくまでフィクションであり、実際の旅をベースにしているとはいえ、それは取材旅行のようなものであって、この作品の中には多くの虚構が含まれています。このことは曽良の随行日記と比較していくと明らかになります。恐らく芭蕉は旅をしながら多くの記録を取り、それを素材にして文学作品としての旅を作り上げたのでしょう。
例えば初日の宿について「奥の細道」は「早加といふ宿にたどり着きにけり」と草加煎餅で有名な草加の宿に泊まったようになっていますが、曽良日記では「廿七日夜、カスカベに泊る」とあり、草加より先の春日部までたどりついていることが分かります。それから「奥の細道」では日光についたのが3月30日で翌4月1日に日光に参拝したと書かれていますが、この年の3月は小の月で(^^;29日までしかなく、曽良日記では4月1日に到着してその日に参拝したことになっています。一泊して次の日朝から行ったことにしたかったため架空の3月30日を作ってしまったのでしょう。中でも最も有名な相違は越中市振の「一つ家に遊女も寝たり萩と月」でしょうか。
親不知子不知の難所を過ぎて、この小さな町に一泊した芭蕉は同じ宿に新潟の遊女が泊まっているのに気づきます。遊女とも言葉を交わしますが、出家の身と遊女の取合せを萩と月の取合せと対照させた、この旅のクライマックスで、芭蕉は「曽良に語れば書き留めたる」と言うのですが(^^; 曽良日記には市振の遊女の話は全く出てきません。感動してそれを曽良にも書かせたということにして話を盛り上げている訳です。