1901年(明治34年)4月20日、日本で最初の女性のための大学、日本女子大学校(現・日本女子大学)が開学しました。創設者は山口県出身の教育者・成瀬仁蔵で、梅花女学校の主任教師を経て、新潟女学校の創設なども行っている人です。
当時、国民全体に子供にきちんとした教育を受けさせることに対する意識自体はかなり高まっていたものの、女性の教育については否定的・消極的な意見を持っている人もありました。特に田舎では「女は字も覚える必要はない」などと主張する人もあり、高等教育に至っては「女子には有害である」という主張もかなり強くありました。
しかし成瀬はキリスト教の伝道者としての経験、アメリカ留学の経験などから女性の高等教育の必要性を強く意識しており、1894年には啓蒙書「女子教育」を著して、世間一般にその必要性を説き、1901年、日本女子大の創設に至るわけです。
この大学の初期の生徒として有名なのが平塚らいてう(1906卒業)です。彼女は先進的な思想の持ち主で、保守的な初等教育に反発して、それを打破するものを求めて日本女子大に入りますが、彼女の場合は、この日本女子大の教科内容でさえ不満が強かったようです。やがて大学の同窓生数人が中心になって、文芸誌『青鞜』を発刊。「元始女性は実に太陽であった」と高らかに女性の心の解放・束縛からの解放を歌い上げました。1920年には市川房枝(後参議院議員)らと共に「新婦人協会」を結成したりしています。