三重県の日(4.18)

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明治9年4月18日、度会県が(旧)三重県に合併して(新)三重県となり、現在の三重県の領域が定まりました。そこでこれを記念して4月18日が三重県の日になっています。

明治の廃藩置県では当初ひじょうに多数の県が生まれたのですが、それがどんどん合併して現在の47道府県に整理されました。現在「平成の大合併」が進行していますが、当時は「明治初期の超合併」という感じです。

三重県の領域は伊勢国・志摩国・伊賀国にわたります。志摩国はすんなりそのまま鳥羽県になったのですが、伊勢国が県が乱立して久居県・桑名県・亀山県・長島県・神戸県・菰野県・津県・度会府と8つも府県が出来てしまいました。なお伊賀国は津藩藤堂家の支配下にあったため、まるごと津県に合流しています。

これが明治4年11月22日にまず、度会府・久居県・鳥羽県が合体して(新)度会県となり、桑名県・亀山県・長島県・神戸県・菰野県・津県が合体して安濃津県となりました。この安濃津県は現在の三重県の北部、度会県が三重県の南部の領域を占めています。安濃津県は明治5年3月17日に三重県と改名しましたが、明治9年4月18日両者が合併して、新しい三重県が生まれたものです。

なお現在の三重県の領域にはあちこち部分的に、紀州藩に所属していた場所もあります。この付近の領地の管理状態はひじょうに複雑で、しばしば係争を引きおこしており、江戸町奉行として名高い大岡越前も、山田奉行(山田は幕府直轄地→廃藩置県で度会府となる。「府」は幕府直轄地の名残)時代にその裁判を担当したことがあり、それが当時の紀州藩主徳川吉宗に実力を認められるきっかけとなったのでした。

度会(わたらい)県の県庁所在地は山田でしたが、安濃津(あのつ)県の県庁所在地は津でした。しかし津は安濃津県の南端で不便だということで明治5年3月に県庁は四日市に移され、その時に四日市は三重郡だったので県庁所在地に合わせて県名も三重県に改名されたのですが、四日市では今度は行政の執行に不便なことが多かったらしく明治6年12月にまたまた津に戻ってしまいました。

この時、県名をまた安濃津県に戻そうという話もあったらしいのですが、その時点で既に度会県との合併話が出ていたため、合併してから考えればいいということで、そのままになってしまい、結果的には合併しても三重県の名前が残ってしまったため、結局この地域の中でも本来ならローカルな地名であった三重が県名として残ってしまったのです。

「三重」自体のいわれは有名なので、ご存じの方も多いでしょう。これは古事記景行天皇の章に、ヤマトタケルの尊がその村で休んだ時に「私の足は三重の勾餅のようになって疲れた」とおっしゃったということから、その村を「三重村」と言うようになった、という伝説が書かれています。この三重村が現在の四日市市付近で、そこから三重郡の名前も出ています。


(2004-04-17)

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