1月10日は明太子(めんたいこ)の日です。これは昭和24年(1949)1月10日に博多中州の「ふくや」が初めて明太子を発売したのを記念したものです。
今では博多を代表する名物となった明太子ですが、これを作ったのは、ふくやの創業者川原俊夫。戦時中韓国にいた川原はむこうで食べたタラコのキムチの味が忘れられず、様々な試行錯誤の結果、これを完成させたものです。もっとも発売当初の明太子は、ある程度の評判はとれたものの、制作者自身が充分に満足するものではありませんでした。川原は原材料を厳選するとともに京都の香辛料会社に依頼して良質の唐辛子を探してもらい、ひととおり味が完成するまでに2〜3年の試行錯誤をしています。そしてその後も味の改良のための努力は続きました。
ふくやの明太子が評判になってくると、作り方を教えてくれてという話もよく来ました。すると川原は惜しげもなくそれを開示。おかげで博多には明太子を作る店が多数できて、あっという間に博多の代表的な食物となりました。
明太子の原料はスケトウダラの卵で、ふくややそのライバルやまやなど優良店の場合、これをだいたい北海道で調達しています(安売店の場合は外国からの輸入物を使用している)。北海道で材料が調達されたものが九州で加工されるというのも面白い話ですが、そのことを知らずに北海道や東北の人にお土産やお歳暮・お中元として明太子を贈る人もしばしばあり、明太子=博多というイメージはかなり強烈に根付いているようです。
私は昔はそもそもタラコが苦手だったので、明太子も食べていなかったのですが、ある時ふくやの明太子を人に貰って一口食べてみて「何?このおいしさ!?」と思い、すっかり魅せられました。更にその数年後に現在の社長の川原正孝氏(当時は常務)の話を聞く機会があり、完璧にファンになったものです。
もっともふくやが大きく成長したのは、創業者の俊夫氏が亡くなって実質的に息子の川原健(前社長)・正孝氏らの代になってからです。それまであくまで個人商店として運営を続けていたふくやを俊夫夫人の千鶴子さんを社長とする法人として改組し、工場のラインから店舗での販売まで見直しを進めます。そして主として健氏が経営面、正孝氏が味の面を管理していく体制を組みました。
ふくやは「人材」とは言わずに「人財」というのだそうです。健氏や正孝氏はひとりひとりの社員、特に店舗の従業員とあらためて面接をし、やる気のある人には大きな仕事を任せ、アイデアが出てきたら積極的に採用しました。その中で最も成功したのは包装紙にノシの模様を印刷してしまうというものでした。明太子は贈答品に使われることが多いため、これはひじょうに好評でした。積極的に多くの支店を展開するようになったのもこのころからです。
ふくやの味が良いもので特に百貨店などから卸して欲しいという声が多く寄せられていたのですが、ふくやは卸売りでは生鮮食品である明太子の品質保証ができかねるとしてこれを断り続けています。(百貨店の店頭に実際に並んでいるふくやの明太子は百貨店がふくやの店頭で買ってきて並べているもの。そのため直販より割高である。ところが値段が高いものでそちらが高級品で直営店に置いているのは普及品と誤解している人もある)
ふくやが卸をしない代わり同社が早くから取り組んできたのが直販の拡大で、昭和45年には遠くからの注文には航空便での出荷をはじめ昭和60年には予約の電話受付センターも開設しました。またネットが普及しはじめた時は、いち早くネットでも注文を受け付ける体制を作りました(当初は月に数件程度しか注文はなかったらしい)。
ふくやではまた徹底して商品先配送、料金後払いというシステムをとっています。これは贈答品として使いたい人に、先にお金を払ってもらい入金を確認してから出荷などということをしても「今の間に合わない」ということから卸をしないこととともに堅持しているものです。その代わり払ってくれない客には永遠に請求書を出し続けるそうです。