十二単(じゅうにひとえ)

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十二単の名前について

ひな人形の中でもお内裏(だいり)さまと呼ばれるメインの女びなは十二単(じゅうにひとえ)を着ています。

現在でも宮中の式典などが行われると見ることのできる十二単(五つ衣・唐衣・裳の姿)ですが、この名称がよく使われるようになるのは江戸時代頃からのもののようです。(文献上の初出は源平盛衰記)

元々は平安時代の女官の衣装をベースにしていますが、戦国時代に朝廷の経済力が衰えた時代、全てのきまりがあいまいになってしまい、江戸時代初期にいざきちんとしようとした時にはかなり間違った運用が行われました。これを寛永有職と呼びます。

しかしその後平安時代の文献などが研究された結果誤りが修正され、享保年間に正しい平安時代の伝統が復活しました。現在の宮中の儀式衣装や、ひな人形の衣装もこの時の研究結果が基本的に踏襲されています。

十二単の構成

十二単は『五つ衣・唐衣・裳』と呼ばれますが、このうち「五つ衣」(いつつぎぬ)とは袿(うちき)を数枚重ねたものです。重ねる枚数は3枚〜25枚とされますが、平均すると5枚くらいであるため「五つ衣」の名称があります。

基本的にはこの五つ衣の上に唐衣(からぎぬ)を羽織り、裳(も−スカート)を履きます。

細かいことをいうと、最初に単(ひとえ)という肌着を付けて、下半身には袴(はかま)を履きます。

その上に五つ衣を着、それから打衣(うちぎぬ)という袷(あわせ)の服、そして表衣(うわぎ)を着て、下半身には裳(も)を付けます。そして最後に唐衣(からぎぬ)を羽織ります。なお、打衣とは砧(きぬた)で衣を打って光を出した服です。

また、足には襪(しとうず)という指先のない足袋を履き、手には衵扇(あこめおうぎ−檜扇)と帖紙(たとう−懐紙をたたんだもの)を持ちました。

この装束が確立した平安時代の中期には肌の上に直接単を着ていましたが、後には小袖(こそで)をつけてから着るようになりました。また、後ろに長くひきずる裳は本来はちゃんと履くものですが、後には略式に服の後ろにくっつけるタイプのものも出てきたようです。

だいたいこのセットで重さは16キロくらいになるそうです。むろん25枚も袿(うちき)を重ねたら30キロくらいになるのではないかと思われます。十二単を着る際は2本の紐を使用しますが、着付けが終わるとどこにも紐は使われていない状態になります。

十二単の始まり

平安時代にも初期の頃は奈良時代の延長で、中国風の服が着られていたようです。

しかし9世紀終わりに遣唐使が廃止されると、それを機会に和風の文化がはやり始めます。

朱雀・村上帝の頃から、文学の世界でも漢詩以上に和歌が作られるようになり、服装も日本独特の様式が発生して「今様」(いまよう)と呼ばれました。大正時代ならモボ・モガといったところでしょう。

この十二単の衣装も、この今様の文化の中で生まれたもののようです。つまり藤原道長・紫式部くらいの時代から十二単は始まったと考えるとよいのでしょう。

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