こよみの読み方(9)十二支と月の対応



さて、今回は十二支がなぜあの対応になったのかについて説明します。これも話し始めるとかなり長い話になってしまうので、できるだけかいつまんで説明します。今日の話が難解と思われた方は、この連載がだいたい終わった頃に、もういちどこれを読み直してください。

古代の中国では年初をどこにするかという問題について「三正」という言葉が伝わっています。

夏正:月建が寅の方位の月を正月とする殷正:月建が丑の方位の月を正月とする周正:月建が子の方位の月を正月とする

ここで月建というのは、その月の1日の夕方、北斗七星の柄が指す方位のことをいいます。方位の言い方は北が子で東が卯、南が午、西が酉、で360度が12等分されて十二支に割り振られています。

星空が見える位置は、太陽の年周運動(=地球の公転運動)により毎日変わっていき1年で1周します。したがって月建も毎月ちょうど十二支の1つずつ移動していきます。実は月の十二支は、本来この月建により定められたものです。北斗七星が使われたのは、なんといってもこの星が目立つからでしょう。

そして、次に問題になるのが、どの月を1月にするか、という問題なのですが、これについて中国の漢の時代にこの「三正」が言われ、更にはこの3つの年初の取り方が王朝交替とともに循環するという考え方が生まれ、そのため漢では寅月が年初になりました。

ここで三正というのがなぜ起きるかというと、これは太陽の歳差によるものです。すなわち地球の自転はいつも同じ方向を向いて回っている訳ではなく、コマのように首振り運動をしています。このため、星空と太陽の相互位置関係は72年に1度の割合(2170年に30度)でずれていきます。
そのため周の時代に1月に北斗七星が子の方向を向いていたとしたに、その前の殷の時代の1月には丑の方向、そのまた前の夏の時代の1月には寅の方向を向いていたであろう、と当時考えられた訳です。

(実際には周正は古文書により実施されていたことが確認されていますが、殷や夏の遺跡からは年初をいつにしたかが明確に分かる文書はまだ出土していません。また殷・夏はいづれも700年くらいずつしか継続していないので、実際はこんなには、ずれないと思います)

そこで、周の次の時代の王朝を建てた漢としては三正循環論にもとづき夏正を採用し、寅月(北斗七星が寅の方向を向く月)を正月と定めました。これは漢の武帝の太初元年(BC104)のことです。

さて、実際問題として、現代の天文学による計算でも周のはじまりの頃に北斗七星は冬至の頃の夕方、本当に北を向いていたようです。冬至はなんといっても、これを境に昼の長さが長くなっていく境目の日。そして冬至は最も早く暮れる日なので、その天の時計ともいうべき北斗七星が最もくっきりと見える日です。まさに、この時代のこの季節が最も年初にするのにふさわしいと考えられたのでしょう。

(1999.04.05)