こよみの読み方(7)日本の暦-2



明治維新が起きて日本が西洋諸国と付き合うようになると、日本と西洋とで異なった暦を使っていることが次第に問題になってきました。そこで政府は新しい暦を採用する方針を固め、幾つかの案が出されました。そして、さてどういう案が採用されるのだろうか、とみんなが思っていた所、突然それは発表されました。

時は明治5年11月9日。太政管布告により、翌月12月は2日までとし、その翌日を明治6年1月1日として、以後太陽暦を採用するという発表がなされました。

この当時はまだ電信などが完全に全国には普及していません。そのためこの知らせが国民に行き渡ったのは11月も下旬に入ってからのことでした。まさに寝耳に水の事態です。このような電撃的な改暦を明治政府が断行したのはやむにやまれぬ事情があったからでした。それは財政問題でした。

明治維新政府の懐具合というのはかなり厳しいものでした。ところが明治6年は従来の暦でいくと閏月が入ることになっていました。当時明治政府は月給制でしたので、1年が13ヶ月あると、給料を13ヶ月分払わなければなりません。それは政府を破産させかねないことでした。そこで政府が考えたのがこのウルトラCです。結果的に明治6年から太陽暦が施行されたため、明治6年の給料は12ヶ月分で済みました。しかも明治5年の12月は2日しかないことを理由に月給は支払わないことにしました。結果的に明治政府は2ヶ月分の給料を払わずに済ませることができ、これが大いに財政的に助かることになったのです。

かくして、日本の新暦移行はなんとも変な理由で行われました。

しかし当時日本の国民は政府のやること全てにかなり批判的であり懐疑的になっていました。かくして、この新暦が公布されても、相変わらず旧暦を使い続ける人が多くありました。また実際問題として、今まで旧暦でやっていた行事をそのまま新暦に持っていこうとすると、季節が合わずにかなり無理の来るものも多かったのです。

一般庶民がほんとうに新暦を使うようになったのは、昭和初期のことです。
当時日本は絶望的な戦争のトンネルを突き進んでおり、そのため国民が色々な分野で一丸となることを政府は強制しました。新暦が津々浦々で使われるようになったのもこの頃でした。

しかし、先にも述べたように新暦で行事をしようとすると季節感の合わないものがあります。そこで、人々は行事の日程を1月遅らせることを思いつきました。いわゆる「月遅れの暦」で、新暦と旧暦の間を取るという意味で、「中暦」とも呼ばれている制度です。今日、お盆はほとんど中暦で行われていますし、ひな祭りや七夕なども中暦で行う地方は多くあります。

(1999.03.29)