暦の歴史

↑

暦の歴史

月と太陽

元々暦というのは、月の満ち欠けの周期と、太陽の高度変化の周期を数えることから生まれました。月(moon)の満ち欠けの周期を月(month)として捉え、太陽の高度変化の周期を年(year)として捉えることで生活環境の変化の周期を把握しようとしたのです。

月の満ち欠けは潮汐の大小と連動していますので、漁業や航海に関わる民にとって、その把握は大事でした。一方農業や狩猟には、季節の把握が大事でそのため太陽の高度変化は重要な問題でした。

そのため、中国でもローマなどでも、この両者を同時に捉えた「太陰太陽暦」が発達しています。日本の旧暦も基本的にはこの系統に属します。

太陽暦の歴史

太陽暦はエジプトで生まれました。エジプトでも古くは太陰太陽暦を使っていたのですが、BC2900年頃に初めて太陽暦が採用されました。これは夏至(正確にはシリウスが太陽とともに東の空から昇ってくる日)を年頭にして1年を365日とし、年頭に5日間の祭日を置いてその後の360日を30日ずつ12ヶ月とする暦法でした(シリウス暦)。

ローマの独裁官ユリウス・カエサル(英語読み:ジュリアス・シーザー)は、エジプトを征服した際にアレキサンドリアの学者の助言を得て、エジプトの暦を元に新しいローマの暦を定めました。これがユリウス暦で、1年を365.25日とし、1ヶ月を31日または30日として、4年に1度、2月に閏日を設けるという方法でした。(当時は現在の3月:マルスが年初と考えられていた)

この時、最初は月の長さは次のように定められました。

3月=31日 4月=30日 5月=31日 6月=30日 7月=31日 8月=30日 9月=31日 10月=30日 11月=31日 12月=30日 1月=31日 2月=29日or30日

彼は新しい暦の制定を記念して自分の誕生月である7月をユリウスと改名しました(英語ではJuly)。

彼の後継者で初代ローマ皇帝のオクタヴィアヌスも自分の誕生月に自分の名前を付けようと思いました。ところが困ったことに自分の誕生月である8月は30日しか無いのです。それが気にくわないと思ったオクタヴィアヌスは強引に8月を31日の月にしてしまいました。そこで1年の月の長さは次のように変わってしまったのです。

3月=31日 4月=30日 5月=31日 6月=30日 7月=31日 8月=31日 9月=30日 10月=31日 11月=30日 12月=31日 1月=31日 2月=28日or29日

ユリウスが定めた暦は1年の長さが365.25日なので、実際の1年の長さ365.2422日より長く、長期間運用していると本当の年とずれて来ます。このずれが16世紀には10日ほども溜まってしまったので、問題になってきました。そこでローマ教皇グレゴリウス13世は暦の改訂を提案し、閏年の入れ方で「100で割り切れて400で割り切れない年は平年とする」というルールを追加するとともに、これまでの10日間を一気に詰めました。それで1582年10月4日の翌日が10月15日になったのです。

当時はキリスト教がカトリックとプロテスタントに別れて対抗していた時代なので、この新しい暦はカトリック国ではすぐに受け入れられましたが、プロテスタント国ではなかなか採用されず、18世紀まで国によって使っている暦が10日違っているという事態が続いていました。日本ではこのグレゴリウス暦を明治6年(1873年)から採用しました。

日本の暦の歴史

日本では推古天皇の頃に中国の暦が輸入され、初め元嘉暦、次いで儀鳳暦という暦が使用されましたが、奈良時代に渡唐した吉備真備が大衍暦の資料を持ち帰ったため、平宝字8年(764)年から大衍暦が施行されました。更に天安元年(857)に暦博士の大春日真野麻呂が暦改訂を上申し、いったん五紀暦という暦の採用が決まりますが、渤海大使が更に新しい暦である宣明暦を使ってはどうかと提案。真野麻呂も資料を検討した結果、宣明暦の方が良い暦であると判断したため、貞観4年(862)から宣明暦が施行されました。

そして日本ではこの後、実に貞享2年(1685)まで、800年間も暦の改訂が行われなかったのです。

長い間暦が改訂されないと、かなりの不都合が起きてきます。取り敢えず春分点が移動するため、実際の天体現象と暦がなかなか一致しなくなってしまいます。

この問題を憂いだのが囲碁棋士であった渋川春海で、彼は徳川光圀などの寵愛を受け、独力で暦の勉強をし、西洋天文学なども学んだ上で初めて日本の緯度経度に合った暦の計算法を立案します。暦の元締めである土御門家(安倍晴明の子孫)に弟子入りもしたりして各方面への根回しを経て、ついに貞享元年、新しい暦の採用が認められました。

そして貞享2年(1685)から新しい暦・貞享暦が運用され始めました。

貞享暦は充分良い暦だったのですが、ここに困った人物が出てきます。徳川吉宗で、彼は暦もぜひ改訂したいと考え、当時の学者に命じて新しい暦法を作らせますが、途中で主導権を土御門家に奪われてしまいます。そして江戸天文方と土御門家の妥協により宝暦暦が生まれ宝暦5年(1755)から運用開始されますが、開始早々に日食の予測に失敗します。大問題となり、天文方が更迭され、暦の修正が命じられます。そして天文定数を改訂して作られた「修正宝暦暦」が明和8年(1771)から施行されました。しかしこの暦は大急ぎで修正して作ったもので、使用した天文定数も根拠が怪しく、かなり出来の悪い暦でした。実際天明6年元旦に起きた日食が実際には皆既食ではなかったのに皆既と予測していました。

渋川春海の貞享暦が江戸幕府側の意向で進められたのに対して、宝暦の改暦では京都の土御門家が主導権を取りました。しかしその改暦が大失敗であったことから、また江戸天文方の方に主導権が戻って来ていました。修正宝暦暦に関わった新天文方・佐々木文次郎は西洋天文学をベースにした本格的な暦改訂の準備を進めさせます。

そして本格的に暦が改訂されたのは寛政9年(1797)です。暦好き将軍・徳川吉宗の孫に当たる老中・松平定信もまた暦好きで、彼は西洋の新しい天文学に基づく暦の作成に関心を持ちます。ちょうどその頃、大坂に暦の研究をしているアマチュア天文学者のグループがおり、江戸の天文方はこのグループに接近して、共同で新しい暦理論をまとめあげました。そうして出来たのが寛政暦で寛政10年(1798)から施行されました。

この暦は更に五惑星の運動に関する新しい理論を取り入れて天保年間に改訂され、弘化元年(1844)年から新しい暦が施行されます。弘化元年からの運用ですが天保年間に定められたので天保暦と呼ばれています。この天保暦には色々問題がありますが、特に問題なのは、民間で行われていた不定時報(夜明けを明け六つ・日暮れを暮れ六つとしてその間を等分して時刻を定める方法)を採用したことと、現代ではきわめて批判の多い「定気」法でを採用したことです。

時刻が正確に測れないから夜明けと日暮れを基準にしているだけで、暦の側がそれに合わせるのはおかしな話です。また「定気」法は、1年を正確に24等分して二十四節気を定めるのではなく、太陽の黄経で節気を定めるので、これもまた(地球の公転軌道が円ではなく楕円であるため)節気と節気の間の時間が季節により伸び縮みすることになります。天保の改暦は大改悪であると言わざるを得ません。

しかし天保暦はわずか28年運用されただけで、明治6年からは西洋の暦であるグレゴリウス暦が日本でも使用されることになりました。

生き残った旧暦

明治6年に新政府は西洋諸国と対等に付き合っていくためには世界標準の暦を使用しなければならないとして、アメリカなどが使用しているグレゴリウス暦を採用しますが、この改暦は民間に大混乱を引き起こします。1日というのに新月ではなく、15日というのに満月ではない、というのはとても変な感じです。そもそも新暦の月名は、今まで庶民が持っていた季節感と完璧に異なっていました。そのため、新暦はなかなか民間に受け入れられませんでした。

明治政府は太陽暦を普及させる目的もあり、暦は政府が刊行すべきものとして民間での暦の発行を禁止しました(1枚ものの暦だけは例外)。そして伊勢の神宮に「神宮暦」の名前で発行させた公的な暦には一切の暦注の類を掲載しませんでした。

しかしそれでも民間には実際、旧暦の日付を新暦の暦に併記し、更には六曜などのそれまで見たこともなかった怪しげな暦注まで記載された暦が出回ります。

これはいわゆる「地下出版物」であり、発行人の名前も何だかおめでたいような架空の名前になっていて、どこの誰が出しているかも分からないということで「お化け暦」と俗に呼ばれています。

そして民間では、明治42年までは一応旧暦が併記されていた神宮暦や、それ以降もこれらのお化け暦によって旧暦の日付を知り、それにもとづいて祭礼などを行っていました。企業活動なども戦前までは地方では日曜日に休むなどという風習がなく、年間の休みは藪入りだけ、などという所も結構あったのです。

しかし地方でもきちんと新暦に移行した地区もありました。そのため、近隣の地域で同じ祭りを実施するのに、町や神社によって新暦で行う所と旧暦で行う所とが出て、かなりの混乱が生じました。更には新暦ではやはり季節感が違いすぎるということで、新暦を月遅れで運用する、いわゆる「中暦」で行うところや、更には新たな日程のルールを定めた地域などもあって、訳が分かりません。奥三河の「花祭り」なども地区により本当にバラバラですし、九州の「おくんち」もかなり分散しています。

出雲の神在祭なども、神様たちの会議は前半・出雲大社、後半・佐太神社で行われることになっているのに、出雲大社では旧暦、佐太神社では中暦で祭りを実施するので、前半の会議を旧暦の日程で終えた神様たちは、タイムトラベルして中暦の日程で後半の会議をしなければなりません。

なお「お化け暦」は終戦後は、暦が自由に制作販売できるようになったことから、堂々と正規の出版物の「運勢暦」として発行されるようになりました。公的な暦は国立天文台が発行する理科年表内「暦要項」の形に縮小移行されており、終戦後は逆に、便覧として見ることのできるような公的な暦は存在しなくなっています。伊勢の神宮では現在でも「神宮暦」を発売していますが、公的なものではなく、あくまで神宮が私的に発行しているものです。

(2013-01-11)

↑ Dropped down from 今日は何の日.
(C)copyright ffortune.net 1995-2016 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから