←↑→ 干支(えと)はいつ頃から使われているのでしょう?(かなり専門的)

■ 質問 干支(えと)はいつ頃から使われているのでしょう?

十干は殷代頃から、十二支はそれより少し前から使われ始めたのでは
ないかと言われています。基本的には、十干は日を数えるのに、十二支
は月を数えるのに使われたのが最初のようです。

この両者を組み合わせて使うというやり方は、長い周期を数えるため
の工夫として生まれたようてす。殷代の甲骨文にも十干十二支で日を
数えた記述が残されています。

年に対して十干十二支が適用されはじめたのは、それよりずっと新しく
なって漢代のことです。60年というのは昔は人間の平均的な寿命より
ずいぶん長いものだったと思われますので、こんなもの使い道がなか
ったのかも知れません。

具体的には漢の武帝の太初元年(BC104)に三統暦が施行されますが、
この時に年に十干十二支が割り当てられることも始められたと記録
されています。この年の干支は戊寅です。逆算すると元朔元年(BC128)
が甲寅になります。

このあと、太初元年の36年後、地節2年(BC68)が甲寅になるのですが、
なぜか、その翌年の地節3年(BC67)も同じ甲寅にされています。それ
以降はこういう干支の閏は一切行われず、単純に60年周期で干支が
繰り返されています。

■ 質問 太初元年の干支(えと)はなぜ寅から始めたのでしょう?

太初の時に年の干支を子ではなく寅から始めたのは、いわゆる三正論に
よるものです。

 夏正:月建が寅の方位の月を正月とする
 殷正:月建が丑の方位の月を正月とする
 周正:月建が子の方位の月を正月とする

ここで月建というのは、その月の1日の夕方、北斗七星の柄が指す方位
のことをいいます。方位の言い方は北が子で東が卯、南が午、西が酉、
で360度が12等分されて十二支に割り振られています。そもそも、
月の十二支というのは本来この月建により決められていたものです。
(現在は単純循環になってしまいましたが)

これにより、漢は周の次の王朝ということで、いにしえの夏の時代の正
月の取り方に戻そうということで、武帝は寅の月を正月と定めました。
それに合わせて、年も寅年から始めた訳です。

(本来三正が起きるのは地球の自転軸の首振り運動[歳差]の為なので
  原理的にいえば漢ではむしろ亥正にすべきですが、その原理を理解し
  ない人たちから三正循環論が出てきてしまったため、夏のものに戻し
  てしまった訳です)

なお、日本の場合、日本書紀の欽明天皇の時代に百済から暦の専門家を
招いて年月の記録を依頼した記事があり、百済では中国式の暦を使って
いましたので、ここから日本でも中国式暦が使われ始めたようです。

日本人が暦の技術を学んだのはさらに50年ほどたった推古朝の頃のよう
で(百済から招いた専門家に日本人の学者を付けて天文や暦の勉強をさ
せたという記事がある)、更に日本で独自の暦の施行が正式に発令され
るのは更に50年後の持統天皇4年(690)になります。この新しい暦は持統
天皇6年から実施されています(儀鳳暦)。

日本での干支の考えというのも、こういった中国式の暦の輸入とともに
始まったと考えられますので、日本での干支の使用は、学者や朝廷の事
務方などの間では欽明朝から、一般には持統朝から始まったと考えてよ
いと思います。

■ 質問 三統暦の時なぜ戊にしたのでしょう?

今回は私もかなり勉強させられております。

まず三正論ですが、実際に行われていたことが古文書によって確認されてい
るのは周正のみです。殷の遺跡から出てきた古文書にもそれらしきことが書
かれていて、それにより一部の人は殷正も行われていたと主張していますが
この説には疑問を呈する人も多いようです。

夏に関してはこの国家の存在は現在のところほぼ確実視されているようです。
しかし暦に関する古文書はまだ出てきていません。結局のところ三正のうち
ほんとうに実行されていたのは周正のみで、殷正・夏正に関しては、後世の
人が想像で作ったものという線が、現在の段階での妥当な推論ではないかと
思います。

さて、そちらはいいのですが、問題は太初元年の干支のことです。

資料などを確認している内に、私もかなり混乱していたことが分かってきま
した。少し整理します。

  ・太初元年に施行されたのは「太初暦」であり、「三統暦」は元始年間に
    それが改造された改訂版である。両者は基本的な仕組みが同じであるた
    め、太初暦をも三統暦と呼んでいる文献がけっこうあるもよう。太初暦
    になくて三統暦で加わったものの中で最も重要なのは「超辰法」である。

  ・現在の干支が確かにBC67年以降継続していることはほぼ間違いない。

  ・太初元年の干支に関しては、現在のところ次の3つの説が従来から主流
    であった。
      「甲寅」説(史記の記述による)
      「丙子」説(漢書の記述による)
      「丁丑」説(BC67年からの単純逆算)

  ・私が信じていた「戊寅」説は最近出てきた説の一つで、史記の記述の
    「甲寅」をできるだけ生かそうというもの。BC68/67年の木星の位置
    からこの2年は干支がだぶったと考えると、太初元年を寅年にできる
    という所から来たもの。しかしこの説では史記の「甲」までは生かす
    ことができず「戊寅」にならざるを得ない。

太初元年(BC104)が甲寅で、またBC67年も甲寅ということに関しては、後代の
学者がみな頭を悩ました問題のようです。そのため色々な人が色々なことを
言っているのですが、大雑把にいうと次の2通りの意見に分かれるようです。

  ・BC67年に暦が改訂された時、干支も再び甲寅から始めた。
  ・太初元年を甲寅としたのは後世の干支から「超辰法」で逆算したことに
    より出てきたものである。

超辰法というのは、要するに木星(正確にはそれと逆回りに運動すると想定
した仮想天体の歳星)の周期が正確に12年ではなく11.86年程度であるため、
12年周期で干支を処理しているとやがて実際の歳星の位置とずれてきてしま
う。その為歳星に合わせるため、ときどき干支を飛ばす、という理論です。

ただしこの超辰は実際の所、一度も実行された形跡がないようです。太初
元年が甲寅であったとするのは後世の逆算結果、という考え方の場合、では
史記の記述はどうなるのだ?という所が一番痛い所のようです。

なにしろ史記を書いたのは司馬遷であり、その司馬遷は武帝に仕えていた
のですから、その自分の時代のできごとを間違える訳がありません。そこで
この説を採る場合は、史記の武帝の代に関する記述は、彼が武帝の機嫌を
そこねて宮刑に処せられた時に同時に破棄されてしまったとし、現存の
武帝の時代の記述は後世の人が増補したものである、という説を採らざる
を得ません(これも昔からある説のひとつのようです)。

ということで、私が再度資料をいろいろと見た現在のところの感想としては
太初元年に甲寅で暦を始めたが、地節3年(BC67年)にちょうど暦の閏の周期
が改まった時に、再度甲寅から干支を振り直した、といった所がいちばん
もっともらしいのではなかろうか、と思っています。

なお、この付近に関していろいろ書いてある資料としては下記のものがあり
ます。

   ・司馬遷「史記」武帝の章(新暦施行の記事)、暦書(太書元年の干支が
     甲寅である旨の記事、及びBC20年までの年表あり。ただしBC104以降
     の干支までは書かれていない)
   ・漢書律暦志
   ・藪内清「隋唐暦法史之研究」臨川書店
   ・橋本増吉「支那古代暦法史研究」東洋文庫
   ・「干支の書」第百生命
   ・中村清兄「宇宙動物園」法政大学出版局
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